note転載1 食器棚は、やわらかくなった光をそこらじゅうで溢れださせる。

 皿から皿へ、次から次に、ナイフが、フォークが、フルーツナイフやフィッシュナイフが、サラダフォークやミートフォークが、映って、移って、何度でもきらめていく、いろいろな人の顔つき、でも、誰の顔かは思い出せない、瞳から瞳へ、フォークが映り、ナイフが映り、そこに映った景色がうつり、夜空がうつり、三日月が、白く息づいている星たちがうつった。すばやく交替していく銀色の食器たち。そこに曇りガラスのようにうつるおぼろげな顔立ち、まるで夢の闇に浮かぶ金属たちは、誰かの瞳のようだった、その瞳から瞳に、とぎれとぎれの雲がうつるように、何かがうつった、きみは闇に浮かぶ銀色の光に浮かぶ闇を見ていた、それは宛先も知らない不安な宇宙をさまよっているようだった。

 きみのからだは遠い荒れ果てた宇宙の抜け殻でできていた、自分のからだが黒い銀色になって、そこ宿っている宇宙を、ずっとさまよっているような気がした。

 きみをだれかと繋ぐもの、それは、人の魂の根源にあるものが、最終的には、それとも、始まりの場所では、すべてが一つでできている、というような、そんな予感めいた感覚だった、だとしたら、人格も、個性も、その感覚の痕跡にすぎない、それが無限そのものにつながっているから、という理由で、その痕跡は愛される。そうすることで、人は自分自身を愛することができるから。

 人に無限性を感じさせてくれるもの、それは好きな場所にならどこにでもうつることができる、きみがそれを感じることができたもの、それは、ある時は流れていく雲の複雑な形だった、様々な裸子植物や地衣類でおおわれている、古代からの森だった、繰り返し繰り返し押し寄せては引いていく、潮の流れの残響だった、それはこどもの頃のきみが尊敬する一人の人間だった、それは音楽だった。

 そして、その音楽は、ある日一人の少女の横顔に宿り、それはとても信じられない美しさだときみは感じた、そしてきみはその余波を買い、その影響を被るように、その音楽だけではなく彼女のことも愛した、というよりも、きみの内面で、それは彼女とすっかり融けあっていた。

 その様子はまるで不可能な矛盾だった、きみは感じた、この二つはお互いの魂のための一本の櫛になり、お互いの魂のお互いのうつくしい髪の毛をお互いに梳かしあうのをもうはじめているようだと。でもそれはきみの内面だった、その場所はきみの内面だった。

 きみは彼女に出会う前に、もう自分の内面によって疎外されていた。あらゆる時間はそれの住まいだった。どこでも変わらずに、それは悲しい顔をしていた。ある時それはひとすじの水滴を纏わせた、何か蒼い花に変身して揺れていた。そしてきみはその花を取り囲んで反映しているガラスのように透明だった、その花を風から守るガラスのように透明だった、そしてその花を孤立させてしまうガラスのように透明だった。そんな風にきみは自分自身を幾重にも取り囲んでいる夢の垣根から追放された。きみ自身も夢の垣根だった。

 彼女は差し込んでくる光に融けあうことで、あたらしく生きていくための熱を生み出しているように見えた。

 きみは透明になりたかった、透明でいるのは苦しかった、きみは無ではなく、ガラスだったから、それは冷ややかで虚ろな反映をつくった、そしてそれが冷ややかであるのは、きみが物質であるからだった。そしてきみの背骨は、取り戻すことのできない悔恨に震えて、しびれたように、よく軋んた。

 それははじめて彼女に出会ったときだった。感受性は何か際限のない無になってきみを被覆した。削ぎ落とされて、自分がどこにもいなくなってしまう時、その時星は、星たちは時々ずいぶんまぶしく、異常なまでに輝いていた。そこで繰り広げられている光景は、何か得体のしれないおそれを歌っていた、そのとききみは、何かよりそうことのできるものをさがしている、こどものようだった。

 今きみはとても深い闇の底にいる、凍り付くように熱を帯びて、すべてが真っ黒な粘状体になって、闇そのものの一部になったみたいに。きみは彼女と二人して横になり、お互いの首の方に首を向けながら、片手と片手を重ねあった、彼女とはぶつかり合うことも、本当に触れ合うことも、本当にすれちがうことさえできない別の世界に棲んでいるのだと、きみは信じていた。だけれど同時にーーまるでそれを喪くしてしまったような気になることしかできないような、とらえどころのないような確かさをおびている、ふたつの世界の中心で、孤立しながら、きみははじめて他人になれた気がした。きみは今までとは全く別の人間になれた気がした。そしてきみはそれすら越えることができるとさえ感じた。きみ自身を、それから彼女自身を越えた世界で、わたしたち自身のいない世界で。

 さっきまでつめたかったのに、静かにからみあわされる指先たちは、つめたさのむこうにあるものの糸口をもうみつけていた、きみに向けて彼女は微笑んだ、空気はどこか悲しすぎるおももちでいる幸せを震わせながら、きみの全身を真っ白に通交していくのが分かった。
 
 そして窓から、月の、星たちの、というよりも、むこうからくるあの場所からの、場所と言って良いのかよくわからないけれど、あの場所からの、まるで光でないような強い光が、強くてそれなのにまだどこかやさしい光が、強くてそれでも儚い光が、それでもいつまでも消えることのない、あまりにも短すぎるせいであまりにも限りのないものを暗示してしまうような、ひとつの光が、自分と彼女を照らしているのを、きみは見ていた。

 かがやきが呼吸し、いくらかの湿り気を帯びているのが分かる。水晶みたいに、花粉みたいに。抽象化されている笑いみたいに、まるでカゲロウの羽根の結晶的な美しさだけを水に融かして流したみたいに。魂に垣間見られた星たちと夜空は、きみの背中を見返していた。

 かぎりなく冷たいのに、人の感知できる温度を越えてまでつめたいのに、それにもかかわらず、まだ生きている、石英でできたやさしさのようなもの、そういう光が、全身を包んでくれていて、しずかにそれらは判明になっていく。天からではなく、それはきみの内側に潜んでいるもうひとつの天上から顕れて、きみを取り囲んで包んでくれているカーテンだった。その下でなら、感じないわけにはいかなかった。繰り抜かれている透明にしかすぎない、とこしえにちっぽけな無でしかない自分のことを。聖なる温度の変化の下で、聖なる気圧配置に気圧されて、きみはこれ以上ないくらいまでに透明になった自分のからだの細胞たちがしずかになって、音も立てずに、伸び縮みしているのを、直接感じることができるようだった。

 彼女と別れた時にはいつでも、きみは一人残った自分を感じた。すべては反射の作用でしかないのだときみは思った、それでも反射たちはみんな、言い様のないかけがえのなさを身におびていると、きみは感じた。きみは些細な言葉にすぐおびえた。きみは疑うことに羞恥を感じた。きみはさみしかった。きみは自分が裏切られることを知っている空想を空想した。そして幸福な裏切りを信じている空想を空想した。きみは色々なことにいつも気を取られて、自分を忘れた。そして気が付くと、もはやすっかり親しさをなくして、乾燥しきった地面の上で、取り繕うことなんてできっこないような裂け目がどこかに、開いている気がした。

 彼女はもう眠っていた。眠れずにきみはそれを見ていた。ほとんど何も考えず、考えることができずに、考えることさえできないで、星たちの仲間に入れられて、すっかり夜空に融け込みながら。

 風景のすべては、きみの場所から、ただきみのいる場所から、見つけられた風景に過ぎなかった、でもそれでもかまわないときみは思った、身を切るような、押し潰されるような、大声で泣いているような、あらん限りの大声で怒りをむき出しにして笑っているような、信じられないくらいにやせ細っていきながら同時に透明になっていく静けさのような、それでもどこかから涼しい風が、きよらかな水を胸に秘めているようなかがやきの記憶を、あの死の影が招きよせる、未来永劫につづく薄暗い回廊からぬけだした時の、あの記憶を、かすかにとどめた涼しい風が、吹いてくるような、このやすらぎは、今まで見たことも聴いたことも触れたことも、思い出すことも、これから先に、思い出すことさえもないかのような、奇妙な瑞々しさを自分自身に融け込ませて、きみのすぐそばで寝息を立てているのだった。

 しずかにひとつの気配が拡がる、きみのなかで、無言の気遣いのようなものが、無言のいたわりのようなものが。絶望と絶望を確かに越えているものと、無と無をたしかに越えているものーーたしかにきみは、それを感じた。たしかにきみは、彼女のことを、愛していた。

(2008年頃から執筆し2018年に完成)

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