note転載16 地下鉄とおにゅそと食べっこ動物

記憶の奥底に、黒い漏斗のように広がっている、地下の世界には地下鉄が走っている。地下鉄は、蟻塚の中身のように、複雑な迷路のように展開されている。

――わたしは、その地下鉄の中にいる。遠くから見ると、きっと、小さい、こども向けの人形のようにやせ細った姿でいるだろう。――狭い天井と、並べられた蛍光灯に照らされて。地下鉄特有の薄暗い感じが、心ならずも、異空間に脚を踏み入れてしまった雰囲気を、醸し出すのに一役買っている。

広がっているのは、全体的に薄暗くて、薄汚れている風景だ。幾何学的に敷き詰められているタイルも、コンクリートの地面も、切り出されたばかりの石のように汚れている。

――風化と塵埃によって生々しく呼吸している、人工的なものたちの肌触り。改札には、暗い服を着た駅員たちが立っている。仲良く並んだ、青や赤の、プラスチックの椅子がある。

椅子のひとつに坐っている。私は少し疲れている。仕事に、友達付き合い、それから、とある文学賞に応募するために、執筆している小説のことを考えている。

ぽつぽつと構内にちらばっている人たちをなんとなく見回す。黒いトレンチコートを着た男が、タバコに火を点ける。鮮やかな朱色が薄暗さの中に灯る。

――わたしは、久しぶりに読み返した、「溶ける魚」という短編小説集のことを思い出している。シュルレアリストの、アンドレ・ブルトンの書いた作品で、彼の書いた作品で一番面白いのはこの作品集だと思う。

はじめの方にでてくる、美しい小間使いにつれられて、謎めいた城の中に招き入れられるところとか、そういう描写を気に入っている。

色褪せたように薄暗い、構内の、線路の近く。列車が来ては、過ぎていく向こうは何も見えない。暗闇が広がる。遠いところで、ゴオオ、ゴオオという音が聴こえる。

洞穴みたいだと思う。線路の奥の黒い部分は、穴倉のようで、ロールプレイングゲームで言えば迷宮の入り口のようだ。

わたしは子供のようにいい気分になる。

・・・もしかしたら、あの暗がりの向こう側には、ミノタウロスが生贄の若者を食べているのかもしれない。本や伝説の中の話ではない。実際にそうだと、想定してみる。

――あるいはボルヘスの書いた小説のように、ミノタウロスは永遠についての抽象的な思考に耽っているのかもしれない。牛と人間の間に生まれて、迷宮の中心に閉じ込められてしまったら、役立たずの哲学者になるしかないのかもしれない。

あるいは、神話の通りに、アリアドネに助けられて、アテナイから送り込まれた若い戦士が、半人半牛の怪物と戦っている場所があるのかもしれない。

わたしはアリアドネっていう響きを気に入っている。

きっと彼女はとても美しい姫君だろう。白かあるいは紫色の、ギリシア風のドレスを着ているだろう。糸巻きを使って、入り組んだ迷宮の中で、出口へと導く手がかりを作ったという。そういう彼女の黒い髪の毛は、赤く染めた絹糸を編んで作った繊細な髪飾りをつけているだろう。クレタ島の王女であるという身分を現す、金色のティアラをつけているだろう。

――ミノタウロスを倒したテセウスアリアドネを捨てた。一説にはアリアドネは神ディオニュソスに拾われてその妻になったのだという。その後で、テセウスアリアドネの姉であるパイドラーと結婚する。でもその結婚は破綻する、その筋書きは、ラシーヌが戯曲に書いている。フランス語ではフェードルだ。

――ところで名前の響きを聴く限りでは、アリアドネという響きはとても美しい。だから恋人から捨てられるのは納得がいかないと思う。それにディオニュソスっていう響きもあんまり好きになれない。

たぶん「オニュソ」って響きがいやなのだろう。だって「オニュソ」だ。平仮名にすると「おにゅそ」というんだ。――薄暗い地下鉄の構内で、わたしはぽつりと、「おにゅそ」とつぶやく。

――こうして現実の空気に、おにゅそが現われ、つまりは空気震動の連続したパターンになって鼓膜に伝えられると、なんだかにゅうっとへこんだ、おへそのような響きが伝わる。それでわたしは一人でうなづく。そんな人を小馬鹿にしたようなイメージを、連想させる音のつながりを、名前の中に含んでいる、ディオニュソス神と、美しいアリアドネが結婚するなど、そんなの納得がいかないじゃないか。

そうしてわたしは、この地下鉄の迷宮の奥底には、今もテセウスがいて、ミノタウロスがいて、アリアドネがいるのだろう、と想像する。ちょうど、人と電話している時に、暗闇の向こう側で、電話の相手が生きているのだろう、ということを、無意識のうちに前提にして、想像しているような、そんな調子で。

そうしてわたしは、むしろテセウスになって、アリアドネと結婚したいと思ってみる。もしも本当に、この地下鉄の、迷宮の奥に、あのアリアドネがいるのだとしたら、彼女は、名前の通りに美しいだろうか。

――アリア、という、音楽用語のような繊細な響きと、ドネ、という部分の、イタリア語のような、少し蠱惑的な響きは、美しい蜘蛛女みたいな感触がある。

ひょっとしたら、彼女がテセウスに捨てられたのは、彼女が実は蜘蛛女だったからかもしれないな、と思ってわたしは笑う。とても長い糸を、迷宮に垂らしてテセウスを救った、というエピソードも蜘蛛っぽい感じがする。

――実際、半人半牛の王子がいるなら、半人半蜘蛛の姫君がいてもおかしくはない。それにミノタウロスアリアドネは父親を異にした兄と妹なのだから。

・・・下半身が蜘蛛の美しいお姫様がいるのなら一度見てみたい気もする。

――そういえば昔、浅草橋にあるとあるギャラリーで、ある人形作家が展示していた、下半身が蛇だったり蜘蛛だったりする球体間接人形たちをみたことがある。けれどもそれはそれで違和感はなかった。ちょっと美しいとさえ思ってしまった。

――女というのはもともと半分くらい蜘蛛とか蛇とか鳥とか魚だったりするのではないだろうか。わたしが今まで好きになったり付き合ったりした女たちは実は夜になったら蜘蛛になって天井裏をこそこそと動いていたりするのではないだろうか。

あの、日本の昔話にある、鶴の恩返しというのは実は本当の話で、世界はみんな口裏を合わして、実は他人が蜘蛛とか蛇とか鳥とか鶴とか、あるいは魔法の国の姫君だとかアンドロイドとか超能力者とか国家転覆をたくらんでいる秘密結社の一員だったりすることをこっそり隠しているのではないだろうか。

面白くなってわたしは今の考えについて反省的な意識を働かせて見る。――もしそうだとしたらわたしはなんて重要人物なのだろう。つまり世界中がただわたしに対して真実を隠蔽しているということなのだから。

――つまり、「世界中がわたしに対して陰謀を張り巡らされているのだ」というのは、わたしじしんの自意識とナルシシズムが口裏を合わせて、「世界中がわたしに対して、陰謀を張り巡らされているのだ」という思考をするように、他ならぬわたしに対して陰謀を張り巡らせていたのだ、ということでもあるだろう。

――蜘蛛の糸のような、意図された計略か。・・・一通り妄想して気が済んだわたしは、ビスケットを食べる。ビスケットはデフォルメされた動物の形をしている。食べっ子動物という名前でしられるお菓子だ。さっきとある駅の近くにある東武ストアで購入したものだ。かわいい形を見ているとわたしは安心する。

――「おにゅそ」っていう名前のスナック菓子があってもいいかもしれない、とふと思う。おにゅそ、というのは「おっとっと」というお菓子に響きが似ている。おっとっとも、おへそと同じように、なんとなく肌色をしていて、薄暗い。

――お菓子はおいしい。子供っぽい多幸感だ。でも「おにゅそ」という言葉は、「おとそ」という言葉にも似ていると思う。正月にみんなが口にするアルコールだが、日本文化に詳しくなくて、アイフォンが壊れてウィキペディアを開けないわたしには、それ以上のことは分からない。

でも、響きからすると、おにゅそ、という言葉が、どこかの部族の祝日だとか、通過儀礼の日に、飲み干されるという、少し白濁した、米を原料にした醸造酒であっても構わないと思う。――それは多分、チベットか、キルギスか、ヒンズークシュ山脈か、アマゾンの奥地か、パタゴニアの荒野か、カフカス地方にある、どこかの謎の部族の神秘の飲み物だ。アンブロシアとかソーマとかエリクサーとか、そういう類の代物だ。

この部族は、子供から成人になるための大切なイニシエーション(通過儀礼)として「おにゅそ」を口にする。おにゅそにはとある植物から抽出した、アルカロイドが入っている。それを飲むと、幻覚を見られる。たぶん人は、幻覚の中で、彼らの偉大な神々に出会い、神々の試練を受けて、過去に犯した罪のすべてを懺悔する。そうして彼らは新しい名前を授けられて、頭から香油を注がれる。注がれる香油は、出産をそのまま象徴している。彼らはそうして生まれ変わって、神々とともに生きていくことを誓うのだ。

――通過儀礼に幻覚成分の入った液体を飲ませることは、メキシコのインディオや、古代インドのリグヴェーダ、シベリアのシャーマン、あるいは古代ギリシャのエレウシスの秘儀をはじめとして、世界中で行われている。悪用されて、新興宗教自己啓発セミナーで使われるのは、そのなれの果てというわけだ。

――けれども彼らは、大事な時に「おにゅそ」を飲む部族、ということ以外は、一切謎に包まれている。

・・・などと考えているうちに、不意にわたしは話題を変えて、これから国会議事堂前で行われている反原発デモを見に行こうかと考えはじめる。でもわたしは身体的に疲れている。原発デモには10万人か15万人の人が来ているという。少し前に偶然顔を出した、左翼系の人たちが出入りするバーで聞いた話によると、その数は日本野鳥の会とそれに協力する大勢のボランティアたちが数えたという。反原発デモの主導者たちの姿勢を気に入らない人たちがいて、その人たちは国会議事堂裏でもデモをやっているのだという。最近はそっちが流行りなのだという。

――そういう話を聞いたわたしは、野鳥の会の人たちにとっては、ひょっとしたら人が鳥のようにしか見えないのではないだろうか、と思う。あるいは、彼らが普段見ている鳥たちは、実は人間たちなのかもしれない。

――つまり、野鳥の会に加入すると、日本のどこかの、多分瀬戸内海の入り組んだ島々のどこかにある、古びた洞穴に連れて行かれて、神秘的な通過儀礼を授けられるのだろう。そこで彼らは、どこかで聞いたような名前の液体を飲み干す。そうして神々に誓いを立てる。そしたら超自然的な力を手に入れるのはあっという間だ。

彼らは野鳥とテレパシーで会話をする能力を授けられる。そして人を鳥に変える能力とか、鳥を人に変える能力を手に入れる。あるいは自分たちが鳥に代わって、人々を空から観察する能力を与えられる。

彼らは同じような秘密結社のグーグルと秘密協定を結んでいて、地球上のいたるところに張り巡らされているグーグルアースのwebカメラは、もちろん日本野鳥の会が鳥になって、その鳥の目に取り付けられた超小型のwebカメラによって送られた情報なのだし、アメリカの無人攻撃機を誘導しているのも彼らなのだろうと思う。

そういうわけで、国会議事堂前に集まっている群集たちの上空を飛行する、鳩たちや雀やカラスたちは、野鳥の会の人たちが変身した姿であるのは、否定しがたい真実なのだと思う。彼らは同時に、グーグルとかアメリカ政府とか、宇宙人とかに、自分たちの得た情報を発信しているのだろうと思う。

でもそんなことを考えていていいのだろうか。野鳥の会の人たちやグーグルやアメリカ政府から抗議されたりエージェントを送られていやしないかと思う。わたしは不安になる。ただでさえ暗い地下鉄の穴の中にいるのだから。アメリカ政府か。・・・薄暗い地下鉄の、プラットフォームの片隅にある、椅子に座って、気付くとわたしは、浅い眠りに落ちていく。

・・・わたしは夢の中にいる。――米粒のように小さくなって、とても大きい、地下鉄の駅のようなところを歩いている。そこは大勢の人でごったがえしている。――でも人々はみんな、見事な鳥の被りものをつけている。青い鳥、赤い鳥、まるで光で汚れたような、鮮やかなレモン色のメッシュの入っている、瑠璃色の鳥。――鳥。鳥。鳥だ。――地下鉄のメザニーンの中には、薄汚れた銀色のエレベーターがある。

――わたしは地下活動をすることを義務付けられた組織の一員だ。そしてわたしは、仕事で、古い雑誌や、新聞や、それから大量の書籍を、地下深くにいる顧客のところにまで運んでいかなくてはいけない。銀色のカートに、太いゴムバンドを二つ用意して、プラスチックのボックスに括りつけている。

この国のすべては地下にある。つまり、地下鉄の中に、都市のすべてが生きている。国中に地下鉄がはりめぐらされていて、人々は地下鉄と地下鉄を流通する。永遠に続く地下鉄の中を、人々は出口を探してさまよっている。――まるで蜘蛛の網のように、闇の中に、明かりのついた白い線路が張り巡らされている。

――わたしはこの国で、不法労働者の、薄汚い外国人として働いている。

どこか遠い外国から来たようなのだが、どこから来たのかは分からない。だがこの仕事は、不法労働者でなければできない仕事だ。――それというのも、この国ではその存在を否定され、抑圧されている――八百万の神々や、魑魅魍魎が、いたるところで、人々が自分ののことを思い出してくれるのを待っているのだから。彼らの住所を覚えているためには、法の網からは、光の網からは外れていなければならない。

 わたしは不法労働者の身分を借りて、密命を帯びたエージェントとして活動している。わたしを乗せて、銀色のエレベーターはどこまでもどこまでも降りていく。目の前の壁は鏡張り。左右はガラス張りになっている。外は闇だ。それは夜だろうか。わたしはガラスの壁の、片側に凭れている。真正面には、カートの、取っ手に手を置いて、重心をかけているわたしが見える。まるで鏡の向こうの夜の中に自分の姿が吸い取られていくような気がする。

昇降機はどこまでも降りていく。それは地球のプレートを越えて、マントルの地層を過ぎていくだろうか。地核は高熱だ。熱い場所には、幽霊の暮らせる場所があるのだろうか。

――すうっと静かな音がする。すると唐突に、光が溢れて、わたしは何も見えなくなる。扉は左右に開かれて割れる。

エレベーターを降りて外に出ると、そこは美しい緑に囲まれている。そこは朝だ。まだ午前九時過ぎくらいの時間帯だろう。――そこに生えているのは、ブナの木や、柏の木だとか、糸杉の木だ。――そこはさわやかな森になっている。

木々の天上を透かして、青空が広がり、そこから光が差し込んでいる。

――森の木の葉は光を透過して、美しく薫っている。まるで夢の海から上陸した頃からの、古代の夢を見ているように。

――わたしは水色のつなぎを着ている。水色過ぎてまるで水のようだ。わたしは水の幽霊になったかのように曖昧な姿をしている。そうして、簡単な英文の説明書きと一緒に、地図の書かれたボードを見ている。B5サイズの紙の上に、マジックでぞんざいに書かれたルートの通りに、わたしは森を、アルミ製のカートを引きながら歩いている。

――おそらくは縄文杉だろうか、樹齢は千年を超えているだろうと思われる杉たちが、舗装されていない道を取り囲むように生えている。

――生えているというよりかはそびえているといったほうがいいだろう。まるで壁だ。

――アメリカのどこかにあるという、古代からのメタセコイヤの原生林のようだ。

――遠くで鳥が鳴いている。

――のどかな森だ。

――カートを引いて、しばらく歩くと、ある木々の奥には、古い、神殿のような建物が、息を潜めて待っている。――どこかで見たことがあるような気がする。近づいてみると、それはどうやら、霞ヶ関にある国会議事堂のようだと分かる。

しばらくそこを歩いていると、いきなり自分の体が何かにぶつかる。ほとんど同時に、女の声で、「きゃん」という悲鳴が上がる。

――気がつくとそこには、若い女が、膝を崩して倒れている。さっきまでは誰もいなかったはずなのに。

彼女は態勢を立て直し、何するんですか、と強い口調で抗議する。――すみません、怪我はありませんでしたか――「・・・大丈夫」――乱れた衣服を、うつむきがちに整えながら、少しくぐもった声で、つぶやくように彼女は答える。

――見ると彼女は、白いギリシア風のドレスを着て、ギリシャ風に編みこんだ髪に、赤い糸でできた髪飾りをつけている。金色の小さい冠のようなものをつけている。自分の服に付いた汚れを払うと、ようやく彼女は、わたしを見る。まるでこちらの出方をうかがていたのを、押し隠すように。少し憮然とした態度で。

――するとわたしは、おそらく彼女はどこかで見たことがあるのに違いないという気がして、思わず問いかけている自分に気が付く。
「・・・ひょっとして、どこかでおみかけしましたか?」
――すると彼女は、少し不機嫌な顔をして言葉を返す。
「ひょっとするのが好きな人ですね、わたしのことを忘れてしまったんですか?夢の糸をつむいで、こうしてここまでやってきたのに」
「・・・」
彼女は少し投げやりな調子でこう言う。
「わたしはこの国の王女です」
「・・・ということは・・・アリアドネ?」
すると少し笑って、こう言う。
「・・・そう。アテナの女神様が日本人であることは、セイント聖矢にも書いてあるでしょう」
セイント聖矢とは随分古いな、と思いながら、とりあえずわたしは突っ込みを入れる。
「でもあなたはアテナというよりクレタのお姫様でしょう」
すると彼女は、機嫌を直したように、得意になってこう言う。
「面倒なことはいいっ子なしよ、さっきまであなたは、食べっ子動物たちを食べていたでしょう」
「・・・それとこれとは話が別です」
「あら、別ではないの・・・夢の世界と、地上の世界は繋がってるの、星の動きと、人間たちの運命みたいに。この世界にある国会議事堂は、地上に広がる国会議事堂に繋がっているの、あの国会議事堂にまで行ってみると、そこには大勢の人の声が聞こえるはずよ」

ついてきて、と彼女は言う。そうしてわたしの手をとって、道を早足で進んでいく。
「ごめん、もう少しスピードを落としてくれないか・・・カートを一緒に引いているんだ」
「あら、ごめんなさい、忘れていたわ、あなたは神様に供えるための本を持っていたのね」
彼女はそう言いながら、わたしのほうに向き直ると、すばやい手つきで、カートを留めていたゴムを取り外す。
「なっ・・何を・・・」
「少し見せてごらんなさいな」
狼狽するわたしのことなど気にもしないそぶりで、彼女はカートのボックスを開ける。そこには、ブルトンの書いた、シュルレアリスム宣言集と、ラシーヌの書いたフェードル、それからボルヘスの不死の人という本、それからセイント聖矢と、新聞が詰められている。

――そうしてその奥には、炭のような色をしたノートがある。止めようと思ったがもう遅い。――彼女はそれを取り出して中を見る。そこにはわたしの、職務の記録が書かれている。そこには、色とりどりの、街や人物や、映画や伝説についてのスケッチが、説明付きで、色鉛筆で細々と書かれている筈だ。彼女は時折ぱらぱらとページをめくりながら、じっと眺めている。あんまり真剣な目でそれを見ているので、わたしはなんだか声をかけることに気後れを覚える。
・・・何か女の子に強引に自分の運んでいたものを解かれて恥ずかしいような変な気分だ。

 ―――――

どれくらい時間が経ったのだろう、彼女はつぶやく。
「はい、もう十分みたわ」
するとわたしたちは国会議事堂にいる。そこには、黒いスーツを着た大勢の政治家たちがいる。しかしながら彼らはみんな鳥の被りものを被っている。アリアドネはわたしの手を引いて歩く。わたしは水色のつなぎではなくて、黒いスーツを着ている。でもそのスーツからは、なにか水っぽい色をしている、透明なオーラのようなものが、ふわふわとまつわっている。

――地上でデモをやっているのは、この夢の世界で、神々たちや妖怪たちが、百鬼夜行をするからだ、という声が聞こえる。
「・・・僕たちはどこにいくんだ」
「・・・連れて行くの」
「どこに」
「わたしはこれから、ディオニュソスと結婚しなくてはいけない、だからあなたもついてきて」
その言葉を聴いた途端にわたしの背中に冷たいものが走る。ディオニュソス
「なぜ、テセウスはどこに行ったんだ」
すると彼女は不思議そうな顔をして言う。
「あら、あんな不実なひと知らないわ、きっと誰かに手をだして、アテネの国で、王様になって暮らしているんじゃないかしら、あるいはどこかをさまよっているのかもしれない」
「・・・」
「――迷宮なのは、ダイダロスの作った神殿だけではないの、この世界はそれ自体がすでに迷宮なの・・・暗い洞窟の中にある、地下鉄のように、産道のように――そうして誰もが、アリアドネの糸を捜して生きているの」
「なぜきみは、あんな名前の神様と結婚するんだ?」
「名前、名前、名前、名前、あなたはいつも、名前ばかりね、どうして出来事そのもののことを見ないの、どうして言葉ですべてを理解したがるの」
なにか痛いところを突かれたような気がしてわたしは反論する。
「そんなことはないよ、そういうわけじゃないんだ」
「じゃああたしのところに付いてきて、そうして一緒に通過儀礼を受けにいくの、理由は一緒に来て見れば分かります」

そうしてわたしたちは国会議事堂の、回廊のなかを――奥へ奥へと歩いていく。その間じゅうずっと、どこかで、くぐもった響きで、爆発のような音が聴こえる。
「あの音は一体?」
アメリカの無人爆撃機よ。妖怪たちを襲っているの、日本野鳥の会の話はあなたも聞いてるでしょ?」
「聞いているって?」
「とぼけないでよ、日本野鳥の会の人たちは、超能力者の秘密集団よ、アメリカの無人爆撃機の道しるべになったり、反原発デモの数を数えたりするの、日本が原発ゼロになったら、アメリカの原子力産業は得意先を失くして損害を受けるの、だからアメリカ政府は反原発デモなんて気に食わない。それで、夢の世界で、無人機を飛ばして、百鬼夜行をする日本の神々を襲撃するの」
日本野鳥の会は、米軍の手先ということなのか?」
「必ずしもそうとは言い切れないわ、だってあの人たちは、秘密の集団なのだし、自分たちは自分たちで、アメリカと日本を利用して、何かをたくらんでいるのかもしれない」
「漁夫の利を得ようっていうわけだね、だけどさみしい気もするな、ごくごく普通の、野鳥と自然を愛するのどかな人たちだと思っていたのに」
すると彼女はぽつりと言う。
「やっぱり陰謀論はこうでなくちゃね」
「え?」
「気にしないで――あたしとしては、この夢の世界に平和が訪れさえすればそれでいい、そのためには、あたしたちはこの城の奥深くにまで降りていかなきゃいけないの」
するとわたしたちは、何か洞窟のようなところにたどり着く。
「ここは一体?」
「ここは瀬戸内海のどこかにあるという無人島よ」
納得するべきなのかしないべきなのか良く分からない科白だなと思いながら、わたしはこたえる。
「つまりここで、人々はおにゅそを口にして、今までの罪のすべてを懺悔して、新しい名前を授けられるんだね」
「ええ、そうよ、こっちへ来て、みんなも、あなたのことを待っているから」
「そこには一体だれがいるんだ」

洞窟の奥には、パルテノン神殿のような、エンタシス様式の柱廊がある。
柱廊はとても長い。歩いているうちに、地底湖のようなところにたどり着く。

柱廊はそのまま橋のようになって、湖を一直線に貫いて、通っている。洞窟の中にあるはずなのに、見上げると、空には星がきらめいている。冬の星座。――ぎょしゃ座にふたご座、おおいぬ座にオリオン座だ。

――湖の水面には月の光が挿している。ちょうどムンクの描いた、夜の少女の油絵みたいに。

――木立ちを透かして、その向こうに、月の光が水面の、水平線のあたりからほんのりと延びて、まるで光の柱が映っているように見える。

涼しい風が吹いてくる。何か人を不安にさせるような美しさを感じる。

向こう岸まで辿りついて、回廊を通る。――するとそこには、燕尾服を着た、鳥の被り物をした人たちが、左右等しく整列をしている。その中央には、紫色のビロードがしかれている。その床の上には、曼荼羅のような、イスラム建築のタイル模様のような、幾何学模様が刺繍されている。

その奥は、随分長い、大きな階段になっている。階段の頂上には祭壇がある。そうしてそこは、数匹の、なにか柔らかそうな、水色の生き物によって護られている。――それはぐにぐにと動いている。

近づいていくと、どうやら、全長2,3メートルくらいはありそうだ。――どこかで見たような形だなと思ってよく見ると、それはどうやら、水色をしている、巨大な食べっ子動物なのだと分かる。うさぎや、くまや、らいおんや、ひつじだ。――それとは別に、なにか、顔の見えない、まるっこい、奇妙なかたちが混ざっている――どうもおそらく、おっとっとみたいだ。

 ――祭壇の上には、ゾロアスター教徒の拝火壇のように、炎が焚かれて、燃えている。
とても大きな、鼎のような、銀色の、大鍋のようなものが置かれて、ぐつぐつと、白い液体が、沸騰している。
「・・・これが、おにゅそ?」
「そう」
あたりを見回しながら、わたしは尋ねる。
「彼らはみんな、日本野鳥の会の人々なの?」
「そうね・・・厳密にはそうともいえないの、彼らは、日本野鳥の会の人たちになりすましていた、あたしの仲間たちなの、その下半身は、蛇だったり魚だったり蜘蛛だったりするのだけれど、ここは夢の世界の話だから、そのあたりの整合性のなさには目をつぶるの、眠っているんだから、もともと目なんて閉じてるからね」
めちゃくちゃな話だなあと思いながら、わたしは彼女に話を合わせる。
日本野鳥の会の人たちはやっぱり何かをたくらんでいるの?」
「もちろん。だってその方が面白いもの。――あたしはみんなに協力してもらって、野鳥の会の人たちのところに潜入しているの、でも今日は、今ここにまで帰ってきてるの、あなたの通過儀礼をみまもるためにね」
「ばれないのか?」
「安心して。彼らはみんな超能力者だから、分身の術が使えるの、それにここは、夢の世界のそのまた深い場所にあるの。鳥になることや鳥の数を数えることしかできない、あの人たちには何もできない。当然、アメリカの無人爆撃機も追ってはこれない。誰もあたしたちのことになんて気付かないの」
「・・・」
「少し待っていて」
そういうと彼女はわたしから離れて、どこかへ消える。
なんとなくわたしは不安になる。これは最初から何か螺子が外れたような設定だ。だいたい、ディオニュソスはどこにいるのだろう?鳥たちは好き勝手なことを色々しゃべっている。だが、鳥らしく、なんと言っているのか分からない。アリアドネは、しとやかそうな美人だけれど、お姫様らしく、どこかつんとした雰囲気も漂わせている。――それは彼女にはよく似合っている。だけれどわたしは何か大事なことを忘れているような気がする。
「・・・お待たせしました」
アリアドネの声がして、振り向くと、彼女は白いドレスのような服を着ている。そして、両手にお盆を持っている。そのお盆の上には、ギリシア風のゴブレットがあって、その中に、何か良く分からない、白っぽい飲み物が入っている。
「これは」
「いうまでもないでしょう、そんなこと」
――しれっとした態度を、巫戯けたようにわざと浮かべるようにして、彼女は答える。それは別に構わないが、着飾っている彼女の様子は、持っているお盆と妙にマッチしなくて、あるいは妙な調子でマッチしていて、何かおままごとをやっているような感じがする。
「ひとつ聞きたいことがあるんだ」
思い出したわたしの言いたいことを察して彼女はやさしく訊き返す。
「・・・あたしが普通の女の子なのか下半身が蜘蛛なのか、知りたいの」
「・・・うん」
すると彼女は少し楽しそうな口ぶりで、たしなめる。
「女の子の下半身なんて訊くものじゃないでしょ」
思わずわたしは苦笑して同意する、それもそうだね。
――けれども、もうひとつのことが気になってわたしは彼女に訊く。
ディオニュソスと結婚するのに、ここにはそれらしい人はいないみたいだな、それに、僕がおにゅそを呑むことと、きみの結婚に何の関係があるんだ?」
「そんなこと――いうまでもないでしょう」
「・・・」

そのまましばらく黙っていると、不意に彼女は、わたしの正面にやって来る。
――そうしてわたしをじっと見つめる。
睫毛の長い、何かを訴えているかのような、黒い瞳、少し猫みたいだなと場違いなことをわたしは思う。
彼女は無言のまま、お盆を静かにこちらに突き出す。
――わたしは表面的には落ち着いていても、内心は少したじろいでいる。
できることなら、そんなお臍みたいなものは呑みたくはないから。

・・・すると彼女は――飲まないんですか、と小声でいう。

それから彼女は、もう一度わたしをじっと見る。
そして彼女がどこか不安そうな眼をしているのをわたしは見る。

・・・・・・・・・・・・・

・・・かしこまりましたよ、お姫様――そう、わたしは心の中で白旗を上げる。
上げたその手で、そうしてそのまま、ゴブレットを手に取る。
その中の液体を、口に入れると、味はほとんどない。
いや、それは最初だけで、白ワインとお屠蘇を混ぜたような、奇妙な味だ。

――わたしはそのまま、一息で飲み干す。

次の瞬間、胸のあたりで激痛が走る。わたしはうめき声をかすかにあげる。
――そうしてそのまま膝をつく。

すると彼女は同じように膝をつく。そうしてわたしを抱きしめる。
柔らかい髪の毛と、皮膚の感触がふんわりと伝わる。
途端に何かの果物の匂いと、薔薇の花のような匂いが微かに香ってくる。
ローズマリーと、タイムの匂い、それからたぶん、セージの匂いだ。

――どうしていいか分からずに、ただわたしは、彼女の名前を呼ぼうとする。――けれどもうまく、声がかすれて言葉が出ない。

――落ち着いた声で、彼女はささやく。
まるで大事な人形にそうするように、わたしの髪の毛を撫でながら。
「・・・おにゅそを飲めば、あなたは死ぬの、そうしてあなたは生まれ変わるの、ディオニュソスになってね」
「・・・」
「そうしてあたしと結婚するの。蜘蛛女のあたしとね」
「・・・」
「知ってたかしら、蜘蛛っていうのは、交尾する時、雄を食べるの。だからあなたの蜘蛛みたいな部分は、死ななきゃいけない、そうして代わりに」
そのまま彼女は、おだやかに告げる。
「半分くらいは、ディオニュソス

――まさか妖怪のお姫様と結婚することになるとは思わなかったなとわたしは思う。
「半分くらいっていうのは・・・ディオニュソスのお臍のところにあたる、おにゅその部分を飲み干したからか」
「そう。残りはデスしかのこらないけど、そこまで呑んだら、ほんとにあなたは死んでしまうでしょう?」
「・・・僕は自分自身に嫌悪感を抱いて、自分自身に嫉妬したのか」
「嫉妬の本質は自分自身に対する嫉妬なの、こうでありえた自分に対してやきもちを焼くの・・・嫌悪の本質も自分自身よ、こういう風にはなりたくない自分を相手に投影しているの」
随分勝手な理屈だな、と、わたしは思う。・・・そうして、この世界の向こう側でも、会えるのだろうか、と、なんとなく思う。けれどもそのまま、思いを口にする前に――意識はしだいに遠のいていく。

・・・何かとても目まぐるしい夢を見ていたような気がする。わたしは地下鉄の、プラットフォームの片隅のベンチで、座り込んでいる。

ふと気が付くと、わたしの白いシャツの上に、小さい蜘蛛が乗っている。蜘蛛は伸ばしたわたしの指先に吸い付く。けれどもすぐに、指の先から降りていく。

蜘蛛の動きは少しくすぐったい。手からゆっくり肩まで移ると、背中を伝う。椅子を伝って、地面に降りる。――蜘蛛はわたしの周りを、周回するようにうろうろしている。それはまるで、やわらかい同心円を描くようだ。

「・・・アリアドネ、か」

そういうことを思っているうちに、とても大きな音がする。

――暗がりの奥から、巨大な銀色の地下鉄が、プラットフォームにやってくる。

停車をすると、銀色のドアが一斉に割れる。――大勢の人たちが、洪水になって、わたしのことを通りすぎていく。そういう様子は、地面に落ちて、砕けた果実の、中から飛び出す、種たちに似ている。

――袋から零れる種籾のように、溢れでた人々は、そのまま無数の背中になって、そのまま改札を通り抜けていく。人々のカードは、改札機に翳されて――その度毎に、センサーの部分が、青く点灯しては、消灯するのを繰り返している。――時々はエラーで赤く点灯する。――改札機のドアは速やかに開閉する。その音は妙に具体的に聴こえる。

――そのまま彼らは、家に帰るために、迷宮の中にいるような、地下鉄の階段に向かって、歩いていくのを、わたしは見ていた。

(2012年)

 

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note転載の詳細についてはこちらでどうぞ⇩

予定を変更します。 - Keysa`s room

 

2002年から2018年までに書いた詩や小説などをnoteにまとめました。 - Keysa`s room