note転載30 想像の別れ

大勢の人たちが、慌ただしそうに歩いていく。その人影に、紛れるみたいにして、僕は、橋本駅に立っている。
そこは西口の、JRから、京王線へと続いている、乗り換えのための連絡通路だった。

急ぎ足の人たちでできている、温度や靴音や、構内独特の、かすかな匂いだとかの、人工的な、そうして日常的である筈の、雰囲気の流れを感じながら、ぼくは一人で彼女を待っている。――流れにそのまま身を任せたり、時には体で、抗い逸らしながら。

うつむいた僕の横目からは、人々の無数の足だけが動いて見える。
顔を上げると、それぞれの進行方向を向いている頭たちの、髪やうなじが、背を向けるように過ぎていく。
――彼らは歩いている。それぞれの過去の物語だとか、経験だとか、それらが通過していった後に残されていた、生活の様々な習慣や義務だとか、叶うかどうかもわからない、様々な未来の計画の事を考えながら。それから、他人だとか、自分だとか、ものごとに対する、愛だとか、憎しみだとか、悲しみだとか、親しみやすさだとかいった、そういった言葉で表されるような、もろもろの感情に揺さぶられながら――そのための様々な言葉やイメージだとかに、振り回されている――そういう点では、僕自身と同じだ。

――時刻は午後の4時過ぎだった。
通路脇では、西陽の光が差し込んでいた。
観葉植物たちの鉢植えが置かれて、鋭い木の葉の輪郭線が、しずかな様子で茂っていた。――ひだまりのなかにいる、植物たちの形はみんな、みずみずしい湿り気を帯びて、内側から発光しているみたいだった。
このぶんなら、暗い所でも、ほのほのと明るく、光を放っていそうな様子で。

低温状態で、泡立って蒸発していく、水分のようなものが、そこらじゅうに遍在しているような気分だった。
その中に、自分の時間を、自由に溶かし込んでいくことができるみたいに。

――本屋を、喫茶店を、ベーカリーストアを、通り過ぎる。
着飾った人々が溢れかえっている、立ち並んでいる、見慣れた風景の中で。

――ひとびとの渦のなかにいると、僕は安心する。
それは何か本能的な、ゆるやかな流れにさまようみたいな気分になるから。

まるで自分が蟻だとか、雀蜂の群れを形づくっている、一部分でいるような、もしくは誰かの体内で、組織立てられた自然法則に、何の疑いをさし挟むこともなく、運動している、細胞だとか、化学物質だとかの一員であるような――そうでなければ、自分自身が、プログラム言語で、記述された通りに動く演算プロセスの一部であるような、安心感を覚えて。
――人間なんて、どうあがいても、物理プロセスの一部にすぎない、だから何の責任も、努力も、意志も、自意識も、必要ないはずだ。

――その日の楽しみだけを考えながら、自堕落に生きていてもよかった。

でも僕は、自分自身が、これからどういう風に、どういう気持ちをもって生きていけばいいのかを、いつでもたしかめようとするみたいに、生きている。
自分が居なくなっても、社会も人間も、みんな続くのに。

――「ごめん、待った?」という声が後ろから聴こえる。

――振り向くとそこには、彼女が立っている。
菫色のワンピースの上にクリーム色のロングコートを着て。
黒いバックを提げている。
少し切れ長の瞳と、長い睫毛と、色白な肌。肩まで伸ばした黒髪。

「ううん、特にそんなには。こっちもさっき来たところだよ」

――僕はなんでもないかのように、少し笑顔になって、続ける。
「ひさしぶりだね」
「うん、元気でした?」
「あんまり、でも今は元気だよ。そっちは?」
「元気」
「よく似合ってる服だね」
「え、服ってどれですか?」
「そのワンピース」――すると彼女は少し笑う。そしてありがとうと言う。
――「じゃあ行こっか」と僕は言う。

僕は彼女と連れ立って歩いていく。

僕たちは、駅ビルの9階にある、喫茶店に入っていく。
薄暗い店内は、それなりに込み合っていて、活気がある。
橙色の灯りが部屋を包んで、奥の方から、金属的で、端整な旋律が、ハープシコードの音色に運ばれ、聴こえてくる。
――バロックの音楽だ。
コーヒーのたてる、あたたかい匂いがする。
――まだ人がそんなには入っていない、窓の近くのテーブルに座って、僕はカフェラテを注文する。
――彼女は紅茶を注文する。
窓の向こうでは、冬空の下で、沈んでいこうとしている夕陽が、どこまでも拡がっている、橋本駅周辺の市街地を、しずかな黄金色に染めている。

――話を切り出すための糸口をさがすように、僕はうつむいて、意識のガラスの向こう側に拡がっている、内面の世界を――じっと感じとっている。
しだいに自分の胸のなかに熱と圧力がゆっくりとやどってくる。
そうすれば、自分の口に、言うべき言葉を、託すことができるだろうか。
――どこかで頃合を見計らうようにして、僕は言う。
「何年か前にも、この店にはいったね」
――僕たちは黙り込む。

とりとめを持たないような、他愛のない会話が10分ほど続いたころだろうか。
――話をはじめてしばらくしてから、何でもないかのように彼女は言う。
「でも、今日は、話をしに来たんでしょう?」
――すると僕は穏やかに言う。「うん、誰かに話さなきゃいけなかった。それに、きみ以外に話せる人もいなかったから」

――しばらく間を置いてから、話を続ける。――

「あの時、一緒にいた子も含めて、僕は、合計で4人の女の人を好きになった。7年間で4人だから、多いとも少ないとも、どちらとも言えるけど」
――彼女がこっちを見ているのを少し見て、僕は少しうつむき加減になって続ける。――「みんな似ていた。勿論それぞれ違いもあったし、それぞれの個性が好きだったのは間違いない。でも、顔立ちとか、雰囲気とか、やっぱりどことなく似ていたと思う」
「そのうちの三人とは、半年から一年くらい、あなたは話をしたり、一緒にどこかにいったりした。一番長い最初の子のことは別にすれば」
「うん、付き合ったわけでもなかったけれど」
――そこで僕はカフェラテをひとくち飲みこむ。
苦い味が、無感情な喉をつたって、落ちていく。
――コーヒーカップを置くか置かないかのタイミングで、彼女は言う。
「4人とも、なにが似ていたの?」
「・・・男性に対するアンビバレンツな不信感と・・・気の弱さ・・・後ろめたさと、自己否定的なマゾヒズム・・・共犯関係の意識、慎重さ」
――すると彼女は、共犯関係、と繰り返して、少し面白そうに笑う。――釣られて僕も苦笑していう。
「あとは、見栄というかプライドというか、美意識というか」
――すると彼女は嬉しそうに言う。
「でも、そういうのなんとなく分かる。共犯関係っていうのも」
――「・・・世の中にはある種の女の子がいて、そういう子たちは、何か、社会とは必ずしも対立しているわけじゃないけれど、社会とは別の秩序の中で、何か自分を中心にした、球体みたいな、別の秩序の中で、生きているんだと思ったりしたよ、まるで、球体の中にはいったままで、くるくるくるくる、好きな所を転がっていくみたいなね、卵みたいだな」
――どこかで居心地の悪さを感じながら、僕はかすかに笑い、穏やかに続ける。
「みんな、着飾った姿で舞台に立って、みんなから注目されて、ちやほやされたいって思っていながら、舞台に立っていない時は、薄暗い場所にいたがるような感じだった」
――そこで僕は話を止める。すると彼女は、話の内容よりも、話していることそれ自体に相槌をうつようにして、そう、と言う。
「そこで、その薄暗いところから、外側からは半分隠れて、ヴェールの向こうから半分だけお互いを見ることができるような、そういう立場に自分を置くのを、好むんだって、思ったりした」
――彼女はそのことについては直接何も言わない。
――代わりに、どうして上手くいかなかったの?と訊く。
――「たぶん、4人とも、曖昧な状態にお互いを置きたかったんだろうなと思う。
その中で、いくらでも自分の融通を利かすことができるような。
あるいは僕のことが怖かったのかもしれない、警戒していたのかもしれない、きみも知っている通り、僕は変わった人間だったから。
――そして僕は、そういうことを意識するたびに、自分に自信が持てなくなった。
自分が特別に愛され、好かれ、大切にされるっていうことが。
そういうことがありうるっていうことが。
――見放されるんじゃないかって、嫌われたんじゃないかって、すぐに不安だったんだ。
――それに僕自身にしたって、相手の事を本当には好きじゃないんじゃないかって疑ったり、自分なんか相手と関わらないほうが相手のためだって思ったりした。
そういう考えに対して、自分の方が耐えられない癖にね」
「頭と体が一致していない人みたい」
「有り体に言えば、そういうことなのかもしれない。
――僕は、身勝手になれなかったんだ。
本当に、客観的な考え方をしようとすれば、誰だって、取替は効くし、一人の人にこだわる必要なんてない、それに、誰か一人の人を選んで、その人と関係を結ぶのだとしたら、他の人がその中に入っていくことを、否定しなくちゃならなくなる。
たとえば、僕の他に相手を好きな人がいるとしたら、僕はその人の事を傷つけてでも、相手の事を選ばなければならない。でもそれは・・・」
僕が口よどむと、彼女はその意味を飲み込めた様子を見せる。
――かすかな抗議と不安が混ざったような口調で、引き取って彼女は言う。
「それは、だけど――」
「そうなんだ、勿論最終的に選ぶのは相手だとしても、そういうことを考えるものじゃないよね。・・・だけど、同時にそれは、道徳的な事とは違うのかもしれないって、よく思った。客観的な視点からみれば、運命なんてない。
誰と誰とが一緒になろうが、それはいわば物理現象みたいなものにすぎないんだ。
僕よりももっといい人がいて、僕のせいでその人が傷つくんなら、別れても仕方ないって思うんだ」
「まるで中学生みたいなことを言うのね?でも、それだったら、相手の子の気持ちはどうなるの?あなた自身も、それでいいの?」――よくはないよ、と僕は言う。
「ただ本当に自信がなかった。女の子の方が、そういう事を気にしないような気がする――それはさっき言ったように、自分を中心にした自分の秩序を持っているから。――たとえ、それはどこか後暗いことなのかもしれないって思っているとしても」
――そんな風に話す意味があるのか、とでも言いたげな顔で、彼女は言う―ー
「だから、共犯関係だっていったの、他の人からは半分位隠れているって、曖昧な方がいいっていうのも」
「そうだね、それに何も言わなくても、眼をみたり、身のこなしだとか、口調だとかだけで、自分のことを何でも察してくれるようなのが好きなのかなって」
話しながら、少し気分が和らぐのを感じる。
それに気づいて、彼女は言う。
「少し嬉しそうね」
――「ああ、たぶん僕自身も、そういう人の方が実際には好きだったんだろうと思う。少なくとも、嫌いじゃない」
「だったらそうすることも、出来たんじゃないの?」
「うん、できることならそうしたかった、でも、いつも、確実なものにしようとしてしまうんだと思う。
・・・いつも不安になってしまうんだ、かすかなサインだとか、駆け引きみたな事だとかを、うまく判断することができないんだ。たとえば相手が僕に何かを言うとする、それには何か深い意味があるのか、まったく意味がないのか分からない、そうしてどうすればいいかよくわからなくなったんだ、お互いの信頼感に満ちたやりとりみたいなことが、いつもできないんだ。そういうものがうらやましかったよ。いつも多すぎるか少なすぎるって感じてしまうんだ。ー―そうして何もできなくなってしまうんだよ」
「だから、言葉の意味をすぐに確かめようとしてしまったの、
たしかなものにしたいって」
「大して迷わずに信じられるものにしたいってね。
それは、自信がなかったからだし、不安があったからだとよく思ったよ。
誰か一人の人を、愛することに対して、後ろめたさを感じていたから」
――なんでこういう事を人に伝えようとする時は、なにかたとえようもない言いづらさを感じてしまうのだろうと思いながら、僕は続ける。
「僕は相手の何を好きだったのだろう、外見や才能や趣味だけだったのか、それとも身体だけだったのか、そういう要素なしに好きでいられたろうか、相手とのかかわりも、ずっと話していたことも、相手の事を理想化せずにできていただろうか、証拠に、自分の理想と合わない部分を感じた時は、自分が相手に失望してしまうことを隠せなかった、自分に隠せなかった、そうして自分に失望した、それは愛することだろうか、そういうことを、いつも思っていたんだ」
 ーー彼女は黙って聴いている、僕は見ている、自分の口から言葉が続いて出ていくのを感じている、彼女は僕のそういう様子を見ている。
 「分かってる、たぶんそんな風に定義する必要なんてないんだと」
 ー―僕は続ける。
「曖昧な状態を楽しむんじゃなくて、曖昧さの中で、すぐに不安になった。
それは、曖昧さの中にいる時、僕自身が、自分の中の自信のなさだとか、迷いの中にいなければいけなくなるからだと、いわば僕自身が曖昧になってしまうんだって」
「――それで、すぐに白黒つけようとしたの?」
ー―彼女はひきとって、そう言う。
「相手にどう思われているのかを」
ー―答えて僕は言う。
 「すぐに、頭の中で悪い方にとって気落ちしてしまったり、いい方にとって極端に楽観的になったりしたよ。
実際には、その時その時で、相手の気持ちなんて変わるものだし、矛盾していたりもするものなのにね」
僕は続ける。
「相手の事にとらわれすぎて、自分の姿を見失ってしまうんだと思う」
彼女ははっきりとした声で言う。
「・・・それで、うまく言っていたように見えたコミュニケーションも、すぐに齟齬が大きくなっていったの、相手に対して、自分の立場を、自分の気持ちや考えはどういうものなのかを、かなり詳しく書いて、長いメールにして、書いたりもしたの」
「・・・そうだね」
「そんなことしたら、相手は怖がってしまうばかりじゃない。
相手にあなたの立場を伝えたいのはよく分かるけど、相手は立場がないじゃない」
「ああ、自分でもそういう風に思っていたんだ」
――彼女は少し怒ったように、そのまま続ける。
「ううん、あなたは分かってない、ぜんぜん分かってない。自分の気持ちを伝えるのが上手くないのは知ってる、でも、それだからって、そんなことやったら、誰だって怖がってしまうでしょ?あなたは、普通の女の子にとって、極端な物事が起きるってことが、どれほど怖いことなのかを、ちっとも分かってないの。それに反論しようにも、あれだけ長く詳しく書かれたら、何も言うことなんてできないじゃない」
「そうかもしれない、というか、そのとおりだ」
「そのたびに何度も同じ事を繰り返して、怖がらせて、いつも、怖がらせたことを気に病んで。
それを何度も繰り返して。
滑稽なことじゃない。
結局周りに迷惑をかけて生きているだけじゃない。
それも、あなたがその時あなたにとって一番大切な人に向かって、そうしているんじゃない」
「ああ、そうだよ・・・全く最低だな」
――すると彼女は突き放すように強く言う。
「そういう風に拗ねて終わらせるのはやめて。自嘲して笑って終わりにするのもやめて。少しはプライド持ってよ、もっと相手のことを考えて」
――僕は少し強い口調で答える。
「そんなの考えたよ、いいや、俺だって考えたいよ!」
――すると、彼女は少し黙ってから、言葉を続ける。
「・・・だったら、あなたが今までいわなかったことをいいましょうか」
「・・・今は、聞くから、何でもいってよ」
「結局、あなたは、自分の都合や立場ばかりなの。そうね、自分の気持ちも整理できなくて、分析してもうまくいかなくて、それなのにいろいろ考えて。意識しすぎて、他の人が気軽にやっているようには、踏み込むこともできなくなって。でも、そうだとしても、それって、結局はひとりで苦しんでいるだけなの――相手の立場なんて、みてないの、たとえば、一緒にいたときに、相手の子が、一緒にいることを、どう感じるのかを気遣ってあげられるような、そういう余裕なんてない、気遣うだけじゃなくて、実際に気を利かせてあげられるようなことも、できなかったの。ううん、できていたのかもしれないのに、しなかったの」
「・・・否定はできない、たぶんそのとおりなんだろうと思うよ」
「あなたは気づいてた筈よ、あなたがあなた自身で感じていたものとは、まったく別の姿が、相手には映ってしまうっていうことを。あなたがどういう事を感じていたのか全部はわからない以上、相手があなた自身の事を知らなければ、知らないほど。」
「あなたがどんなに悩んだしても、実際に努力したとしても、誠実になろうとしていたとしても、あなたは男性なんだから。あなた自身をみるのではなくて、あなたが男性であることを通して、あなたを見ているの。あなたが男性であることを通して、相手はあなたの話をきいて、あなたの書いた言葉を読んでしまうの」
「・・・そう、だから僕は・・・」
「気づいているのに止めることができないから・・・だから、自分の事はもう、誰と付き合う価値もない人間だって思うの?」
――僕は答えられない。
何も言えない。
カフェラテではなく、コップに出された水を飲んで、僕は話す。
「・・・そういう思いがずっとあるから、自分が相手を思う気持ちよりも、自分と一緒にいることが、相手のためになるのかどうかをすぐに考えてしまうんだ」――「それは相手が決めることでしょう?」
「そうだな、だから、傲慢だっていわれたこともある」
――彼女はその言葉をかわすようにして、呟く。
「あたしにはわからない、そういう風に、相手の分まで責任もとうとしたりして」
「そうだよ、馬鹿げたことだ。そして、自分がすぐに良心の問題を持ち出すところや、過剰に相手の責任を持とうとするところが嫌だった。それは相手を所有するのと、ひいては相手をコントロールしようとするのとどう違うんだろうって。
――だから、最後は、一番最後の子に対しては、人からどう思われても、きみのことが僕には必要だっていった」
――「そう、むしろあなたにとっては、そう言うことが必要だった、彼女のことが必要っていうよりも。――あなたにとっては、あなたの好きになる子はいつも、自分の劣等感や、後ろめたさを克服するための、いわば実験材料になってしまったの。だから、相手の気持ちも、相手の立場も、本当には考えてないの」
「自分自身の影に引きずられすぎて、振り回されて、相手の場所にまで行けなかったのかもしれない」
「だとしても、わたしが同情や共感をした所で、あなたの何かが変わるわけじゃない」
「・・・ああ」
「さっきはなんて言ったかしら。相手に対する、アンビバレンツな不信感。気の弱さ。後ろめたさ。共犯関係の意識。あとは」
「自己否定的なマゾヒズム
「全部あなた自身のことでしょう?美意識を持っていたり、自分で気がつかなくたって、下らない見栄を張っているのもあなた自身なんじゃないの?」
「・・・そういう点では女性的ということか」
「それはなんとも言えないけど」
「自分に似ている人間を好きになるものなのかもしれない。」
「好きになった相手に自分の似姿を投影しているだけで、本当は違うのかもしれないじゃない」
「それはそうかもしれない・・・ただ、似ている人間は、自己嫌悪の強い人間にとっては、安心させてくれる対象にもなり、不安にしたり、憎んだりする対象にもなるのかもしれない」
「あなたはよく言っていたわね、相手の悪口をいう人は、結局、押さえつけた自分自身の、否定したい醜い姿を、相手に対して投影しているだけって」
「だから、相手を非難している人の言葉を聞いていれば、その相手自身の、否定的な姿が見えてくるってね・・・それでもたぶん、言われた方にも問題があることが多いし、似姿を投影できる程度には似ているっていうことはあるのかもしれない」
するとふたりは、しずかになる。

――しばらくしてから、僕はため息をついて笑う。
――「散々だけど、たぶん話してよかったんだろうな、僕一人が考えるだけでは、うまくいかないだろうから。まるで自罰パラノイアみたいだけど」
「ちがう、あなたはそんなのじゃない。あなたはそういう診断を受けた人を実際に知っているの?軽々しく口にしていい言葉じゃないわ」
「確かにそうだね。ごめん・・・ただ、言いたいことは分かるはずだ。生活はまともにできるとしても、自分の欲望や願望に合わせて、勝手に因果関係を組み合わせて、極端な言葉でまとめていって、他人に勝手に投影してさ。・・・ただ、必要だって思ったのは本当だった。好きだったのもね」
「ええ、みんな好きだったんでしょう」
「うん、とても。それに、好きって言葉を言う必要もなかったんだろうなと思うよ」
「また別の誰かを探すつもりなの?あたらしい人と付き合うつもりなの?」
「わからない、ていうか、四人とも探して見つけたわけじゃなくて、偶然だった。それに今は、どういう人が自分には合うのか想像もつかない」
「今までの四人とも、合っていたといえば合っていたとは言えるじゃない」
「合う合わない以前の問題っていうことなんだろうな、とにかく、当分はひとりでいるよ。自分の依存的な性格には、それに頭の中でいろいろ考えてばかりの性格にはそろそろ嫌気がさしているし、今日きみと話して改めて思ったけど、僕は最低だった。でも今は、そういう認識に対して、罪悪感は覚えるべきではないのかもしれない。もう十分苦しんだような気がするから」
「もう二度と誰とも付き合わないで、付き合おうとしたりしないで、ひとりっきりの世界でずっといることもできるわ」
「そうだね・・・っていうか、生涯もう誰とも付き合わなかったら、自動的にそうならざるをえないのかな。――正直に言えば、また誰かを好きになったり、付き合おうとするのが怖いんだ。というより、まったく想像できないところにきている」
「それなのに、あんなに相手を苦しめたのに、この7年で、あんなに自分も苦しんだのに・・・楽しい時よりも、苦しい時の方がずっと多かったのに、それでも、誰かと一緒に生きていくことを、例えば結婚することを、他の人ならいざしらず、あなた自身には夢物語にしか思えないようなことを、まだ信じているっていうの?」
「うん、信じたいと思う。何度も諦めたいと思ったけど。ひとりで生きているのは、あまりにもさみしいから」
「それに」
「それに?」
「申し訳ないと思うんだ。今までの相手に対して。無駄にしたくないんだ。これまでの自分のことも・・・それにもう今までのようではいたくないんだ」
「また、自分を変えるために、自分の劣等感や罪悪感を克服するために、色々な努力を繰り返して、でも結局はできなくて、途中で耐えられなくなって、衝動的になって、相手の事を傷つけて、結果的に自分が傷つくだけかもしれない」
「・・・そうだね」
「それに、どっちかだけが被害者なんてこともない、あなたはそれを知ってるし、だからこそ、自分のせいだって思いたいし、自分から進んでそうしているの。自分から見える相手の姿を、傷つけたくないから。だけど、理想化して見ることも実際にはできない」
「でも、だいぶ楽にはなったさ。こうやって話して」
「あなたは分かってないの。あなたは相手を理想化できない事を知っているから、自分の事を卑下したり、批判したりすることが、相手に対する復讐にしかならない事を知ってるの、あなた自身の良心が、自分にとっても相手にとっても、単なる暴力でしかないことも――結局あなたは・・・思い通りにならない相手の事を蔑んでしまうのよ」

 にがい重苦しさのようなものが、あたりに広がる。
「・・・そうだとしても、それだけじゃないって、今は言えるさ」
どこか強がるように、僕はそう言う。
「分かってない、あなたは認めようとなんてしていない、あなたは、結局不幸になるしかなかったし、これからも、この先もずっと、そうなんだわ」
――耐え切れなくなったように、声を少し震わせて、彼女は言う。
僕は黙ってそれを見る。

――二人の会話が途切れると、店内の賑わいや、遠くに聞こえる電車の音が、スカルラッティチェンバロの調べが、まるで新たな空気のように立ち込めてくる。まるで、つい今しがたまで、どこか暗いところに隠れていたみたいに。それは僕たちの間で、場違いな顔をして通り過ぎていく。――それはごく当たり前の日常の中に現れる出来事だ、だけど彼女といる時だけに現れる、なにかかすかに特別な、やわらかい雰囲気に包まれて、向かい側の席に座って、彼女はうつむいている、窓から差し込む夕方の陽射しが、彼女の髪の毛を、優しい栗色に染め上げる。微かに嗚咽していることを僕はわかっている。

――悔恨と悲しさの入り混じった感情の中で、だけれど、もっと親しさのこもった、さみしさのようなものが、静かに広がっていくのを感じる。だって彼女は少しこじんまりしているから。少し小さく見えるからだ。

――「辛い事を言わせてしまってごめん」
出来る限り、穏やかさと優しさのまざったニュアンスで僕は続ける。

――「そう、いつでも僕はそうだったよね、書かれたことや、話された事、頭の中で自分で考えた事にばかり引きづられて、実際に、同じ場所で生きている、言葉や意識よりもずっと確実に・・・この場所で生きている、僕自身の想像や願望とは別のいでたちをして生きている、きみの事を、相手の事を考える事ができなかったんだ、でもきみはそうじゃなかった、ちゃんと僕の事を見ていたんだ」

泣きながら、少し嘲るような、あるいは自棄になったような口ぶりで、彼女は言う。

――「・・・あなたはいつかも、そういう事を、わたしに言ったわ・・・その人がもしあなたの大切な人だったのなら、たとえあなたの期待や希望の通りにならないとしても、この現実の中で確かに生きている、その人自身の存在を感じる事ができさえすれば、優しくなることができるって。まるで何か新しい事を発見したみたいに、少し得意そうになって」

――「そうだね、はじめてのことなんかじゃなかった。知っていたのに、いつでもすぐに忘れてしまうんだ」

――「それじゃあ、意味がないじゃない」

――「あまりにも、一人でいる時間が長かったんだ」

抗議するように、彼女は言う。
――「・・・だけど、そんなの理由になるって言えるの?」

――「ならないよね、いや、理由にしたって、いいのかもしれない。だけど、理由はそれだけで何かを解決したりはしない」

僕は続ける。コーヒーカップの中身はまだだいぶ残っていて、少し光沢を帯びた、表面が見える。コーヒーカップの向こう側に彼女のティーカップが見える。その向こうに彼女がいる。僕は少し顔を上げて、彼女の方を向いて言う。

――「たぶん、あまりにも、心理を分析しようとしすぎてしまったし、空想しようとしすぎたんだと思う。あまりにも、周囲の事を考えすぎて、立ち止まっていたんだ。あまりにも、すべての事に理由をつけるのに、慣れすぎてしまったんだ。でも、そういうことはたぶん、人と関わっていく上では、実際に誰かと関わろうとしていく上では、大切なことじゃないよね」

彼女は僕の方を見ている、僕は続ける。

――「僕には分からない。どういう風に生きていけばいいのか分からない。だから今は、それを探していくしかないんだと思う。でも、負けたくないんだ。どんな環境であっても、たとえ生まれ持った性質がどんなものであっても」

言葉の続きを引き取るようにして、彼女は言う。

――「たとえあなたが、理想したような姿ではなくても」

僕は言う。
――「本当に誰かを愛したいから、そうして誰かに、愛されたいから」

――――――

――暫く、会話が続いた後で、もう少ししたら帰ろうか、と僕は言う。

「・・・もういいの?」
少したしかめるようなニュアンスで彼女は応える。
――「うん。ありがとう・・・いろいろ思い出すことができたよ。懐かしかった。僕はたぶん、もっと変わらなきゃいけないんだろうと思う・・・何年も、何年も努力して、まだ変わることができないのは、辛いけどね」
あきらめと、さみしさの入り交ざった笑顔で、僕はそう言う。
彼女は答える。
「厳しいこと言ったけど、思いつめないでね。あなたは連想しすぎてしまうから」
「・・・」
「考えるよりも、言葉にする前に一呼吸おいて、感じた事を受け止めて」
「・・・思考するだけじゃなくて、賢くならなくてはいけないな」
「・・・それにもう分かって。罪悪感は愛じゃない」
「・・・負けてはいけないのは、罪悪感や、自己嫌悪なのかもしれない、自分自身の、あまりにも人に色々なものを投影してしまう性質なのかもしれない。他の人と比べるところとか、人生から、すぐに逃げようとしてしまう性質なのかもしれない。すぐに、きっとすぐに罪悪感を覚えてしまうから、相手の事が見えなくなってしまうんだ」
「・・・自分の感情にとらわれてしまって、相手の事が見えなくなるのね」
「その感情が、強く自然なものだったから、それこそ理由のある事だったから、そっちの方を見てしまう」
「でも、罪悪感に応えることと、相手を思いやることは違う、相手はあなたの事を悪いと思っているかもしれない、気にしてなんていないのかもしれない、でもそれを、想定して考えているだけじゃ仕方ない、相手にちゃんと訊いてみないと、分からないことなのー―自分の性格や気質に問題があるなら、相手にもそれを伝える必要があるの」
「僕はそういう事がうまくできなかった、そして、いつも相手に赦されたいとどこかで思っていた。それは、マゾヒズムとかじゃなくて、もっと切実な感情だった」
「相手があなたを赦したとしても、あなたは納得できなかったでしょう」
「・・・僕は自分自身を赦さなくちゃいけなかった」
「一人きりでは、自分を赦すことはできなくて、他人があなたを赦してくれることもできなくて、そして、たとえば神様もあなたを赦したりはできなかったの」

――「・・・僕は何か特定の宗教だとか、主義思想だとかを、信じることもできなかった」

――「あなたが自分を成長させることができたとしたら、それは、実際に誰かと関わって、何度も自分の夢や理想や願望を投影させて、そのたびに不安や恐怖も投影させて、同じような過ちを何度も繰り返してきた、そのことだった」
「その度に、何度も考えることだった」
「その度に、何度も話すことだった」

――「僕は何度も、理想を投影して、理想とは出会えなかった、自分でもその内実ははっきりとは分かっていなかった、そういう理想を。夢見たものは現れた。そう、夢がかなったと何度も思った。でもその度に、僕は躓いた、失敗した。いろんな場面で、傷つけたと思った、実際は違ったのかもしれない、あるいは深い傷ではなかったのかもしれない、あるいは傷ついたのは、僕だけだったのもしれない、いいや、お互いにそうだったのかもしれない・・・それは、確かめようのないことだった」

――「その不安が、あなたにとっては、すぐに重圧になった。だから確定させようとした。そして自分の環境に合わせて、今までの自分の体験にひきつけて、悲観した、悲観的な結末を織り込んで、いつもそれを恐れながら・・・そうしていつでも、うまくいかなかった、ううん、うまく言ったということもできる。あなたの恐れたとおりの、結末になったの」
――思わず静かに苦笑する。
「本当に、似たような失敗ばかりだった」
――「でも、その度に、あなたは確かに出会えたわ、あなたの理想とは違っても、あなたの想定なんかとは関係なしに、あなたとは別の人間が、そこで確かに生きているって、そういう事実に」

「・・・そうして僕は、それを愛した」

「それがあなたの、赦しだったの」

――僕は、黙ってその言葉を聴いていた。そして続けた。
「・・・そうだったのかもしれないね」

 ――少しの間、沈黙が続く。
陽射しが動いて、彼女のいるところはさっきから少し蔭になっている。
――僕はうつむいて、空になったコーヒーカップを見つめる。
少しおだやかな声で、彼女の声が、むこうから聞こえる。
「・・・そろそろ出ましょう」

――会計を済ませて外に出る。日没間際の光が少しまぶしい。道路では、自動車が行き交い、人々が歩いている。振り向くと彼女はもういない。

 ――それがどうしてなのかを、僕は知っている。彼女は僕の話を聞いてくれる。僕は彼女に、人には話せなかったことを話す。

 ――ありがとう、と僕は呟く。

――この先誰かを特別に愛する事ができるのかは、分からない。誰かを愛せるということは、それから何かを愛せるということは、この世界から、それを愛する事が、許されていることなんだと、いつか感じていた頃のことを、僕は覚えている、でもその頃の僕には、愛された相手への、相手自身に対しての、いたわりはなかったのかもしれない。――誰もが、自分と同じように、弱さを抱えた人間でしかなかったのに、誰もが、その人自身の、課題を抱えて生きていたのに。――もしも、愛という言葉に当てはまるものが、この現実の中にもしあるとするのなら、それはおそらく、もっと静かで、隠れているものなんだろうと思う、そうでなければ、それは罪の意識よりも、後ろめたさよりも、自分自身の性格よりも、この人生のどうしようもなさよりも、きっと、強くはなれないからだ。

――駅の階段から人々が下りてくる。風が街路樹の木の葉を揺さぶっている、高架の上を、電車の音が通りすぎていく――それらの音を、聴くともなしに聴きながら、いつか誰かに愛されたいと、僕は感じている。

――自分のあらゆる、想像の向こうで。

(2003年頃執筆し2017年完成)

 

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note転載の詳細についてはこちらでどうぞ⇩

予定を変更します。 - Keysa`s room

 

2002年から2018年までに書いた詩や小説などをnoteにまとめました。 - Keysa`s room