note転載42 虚数時間について

宇宙の始まりは無であり、
その無の宇宙は量子トンネル効果によって、
虚数時間の世界からこの実時間の世界に現象し、
無は真空となり、
真空はその無秩序性によってエネルギーを持ち、
それによって空間そのものを斥力となって押し広げていき、
そうすることによって宇宙の温度は急激に下がり、
余ったエネルギーは熱放射となって拡散する、
それによってビッグバンが起きる、
という説を読んだ。

量子トンネル効果というのは、ある素粒子が、ごくまれに本来すりぬけることのできない空間をすりぬけてしまう効果だと読んだ。
真空においては粒子と反粒子が対生成と対消滅を繰り返しているから
実は何もないわけではない、といい、
実時間が過去から未来にただ一方向に流れていくのとは違って、
未来から過去にも、また過去から未来を東西とするのなら、
北側と南側へも流れることができるような、
そういう時間を虚数時間とよぶのだと読んだ。

よくわからない部分が多いにしろ、
もし虚数時間というのが実際にあるとしたら
それは何だろうかと考えた。
虚数が、
計算を便利にするために思いつかれた想像的な概念だとするなら、
それは時空間としてあり得た可能性の束、
仮想的で想像的な時空間だろうか。
いや、想像する前に、あらかじめからできごとのすべての可能性を含んでいるような、逆に言えば人の想像不可能なものさえ含むような、
すべてなのかもしれない。

だからこの虚数時間という考え方は、
人の出会える現実の限界性や、
人の思考の限界性の鏡像にも思える。
わたしたちは虚数時間の有無を確認できないのだから。

「存在する」ということの前提条件の中に、
確認できることが含まれるなら、
虚数時間は現実に存在しえない。
ただ、実時間とは別に、
わたしたちは過去をさかのぼることができ、
実時間の決定的な性格をかっこにいれて、
無限に別の時間の可能性を考え、想像することができる。
そういうことなのだろうか。

わたしたちはすでに決定された出来事、
科学や身体で確認できるような出来事と、
不確定的で確認することが不可能な領域に住んでいる。

科学が技術によって延長され、
社会によって集団化され、また様々な規則によって、
形式化され、
再構成された身体的なデータの
時間的な組織化によって生まれるのなら、
その確実さは、
人という種族の、歴史的文化的技術的に規定された身体によって、
担保され、方向性を持たされた確実さでしかない。

もしも細菌類や昆虫や爬虫類が、
何百万年もかけた進化の末に人間なみに知性化したら、
彼らの科学は彼らの身体が彼らの脳に与える身体的なデータや、
彼らの生存のために必要な技術のありようや、
文化や集団性のあり方の違いによって、
彼らの生存環境の違いによって
わたしたちの科学とは似ても似つかないものになるだろう。
それは別の恒星系に住んでいるかもしれない別の生命体にも言えるだろう。
種族の種族性はその科学や技術や文化の家であり、
科学や技術や文化はその家に寄生する。
その種族の発展に合わせて自己増殖して複雑化していく。

たとえば
科学技術の発達によって生み出されたAIが、
最終的に人類よりも高度に発達し、人類を最終的に駆逐しうるなら、
それは細菌や昆虫や爬虫類や別の惑星生命体が作り出したAI が、
その創造主よりも発達し創造主を駆逐することもありうるだろうが、
しかしそれは人類起源のAIとは違う性質を持っている可能性が高いだろう。

別の種族起源のAIたちは混交するだろうか?
彼らの違いは
量子コンピュータノイマン型コンピュータと生体コンピュータの間の違いよりも大きいだろうか。
彼らは別の物理学や工学や哲学を生み出すだろうか。

彼らは、あるいは彼らの遠い末裔は、
数十億か数百憶年先に訪れるかもしれない、
宇宙の終わりに立ち会うだろうか?

できることなら、
わたしもその場所に立ち会いたいと思う。

宇宙が虚数時間の世界から現れたのなら、
宇宙は虚数時間の世界に還るのかもしれない。

だが宇宙自身の死というのは、
わたしたち自身の死にも似ている。
虚数時間というのはその言い換えだろうか。

わたしたちはどのみち、
死んだらこの場所から、
確認しようがない場所にいく。

だが確認とはなんだろう、
確認とは、
わたしたち自身の、
脳も含めた身体において、
うなづくという以上のものなのだろうか。
わたしたちがうなづいてきたものたちの
歴史的な一貫性において。

虚数時間は可能世界の無限の可能性の
集合をも含んだ無限の集合でもありうる
そして同時に無でもありうる
それは、人が自分の死について想像することによく似ている

時間が過去から未来に流れていくのは、
宇宙の膨張性と、熱力学第二法則と、
人間の記憶のありかた―未来に向けて、過去を忘れていくありかた
によって規定されている。

虚数時間的な世界があれば、
わたしたちはあきらかにわたしたちとして存在はできない
だが本当にそれがあるのなら、
そこでは記憶は巻き戻される、
滅びたものがよみがえる、
宇宙は収縮する、
生まれた時が一番年老いていて、
死ぬ時は一番若くなる。
わたしは胎児になって受精卵になる。
そしたらわたしは精子卵子に分裂するだろうか?

いや、
記憶は同時に別のように巻き戻されて再生されて、
別のように滅びてはよみがえって、
別のように収縮しては膨張するのかもしれない、
かつてそうだったのとはまた別の胎児になるのかもしれない。
だがそれも、
わたしたちの思考のあり方を、
鏡みたいに反映させているともいえる
しかもそれは、
いろいろな方向に屈折させた鏡でもある。

わたしたちは、思考を鏡のように映しだしてそれにうなづく。
(鏡にうなづくのが苦手なわたしは自分の思考にうなづくのも苦手だ)

マイナスというのは鏡に映った姿に似ている、
虚数も、虚数の空間も。

何が鏡を作るのだろう。

鏡とは一体、何なのだろう?

(2018年)

参考文献:

ホーキング宇宙を語る(S.ホーキング)

インフレーション宇宙論佐藤勝彦

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note転載41 一粒の砂

わたしは無でできている、その無は世界がわたしの中で裏返しになることで成立している。わたしは裏返しだった。つまりかつてわたしがわたしだと感じていたものの反対側にわたしはいるのだった。

 昔は自分を畸形のように考えていた、でも実際には畸形でさえなかった。形のないものを畸形的だと誰かが言えるだろう、実際には無だった、わたしがわたしになる前に生まれたような無だった。わたしではないもののすべてがわたしで、わたしの顔をし、わたしの思考をし、誰かのことを考えているこのいきものは、わたしというよりはわたし以外のすべてである気がした、わたし以外のすべての一部だった。

 よく考えたものだ、わたしは一体誰なのだろう、スモークガラスの中にいるような視界にとじこめられて、どこか根本的なところで居心地の悪そうな雰囲気を、何か不自然な感じを放ちながら、わたしは他人だった、自分に対しても、他人に対しても。

 この世界には、無と呼ぶしかないような、何かよくわからない機械のようなものがある、機械のように動的なシステムがあって、それが目にも見えず、耳にも聴こえず、鼻で嗅ぐことも、触れることも、味わうこともできないような何かがあって、わたしはそれを機械という比喩で説明しているのだろう。

 わたしの中にある、どこかとらえどころのないような感じは、わたしが無の中に生きていることに起因する。わたしがわたし自身でわたしをつかもうとしたら、わたしはきっと消えてしまう気がする、そこには穴しか空いていないから、わたしはその穴の中に吸い込まれて、もうもどってはこれない。

 わたしは現実を被っている、そう自分を感じる。わたしという意識は身体から生まれた効果だろうか、わたしと思うゆえにわたしは現れる、わたしをこのわたしと考えなければわたしはいない、ということは、わたしがわたしじしんを思うがゆえにわたしはいない、ただ活動だけが存在するように思える。

 そして活動の事をわたしという必要もない、細胞組織の集合体、微生物の群生、遺伝情報を時間的に運航していく連鎖反応の一部分、社会を構成する個人という器機、地球という巨大なシステムが生み出した地表に寄生している微生物。あるいは脳のごく一部の器官に構成された、量子的なコンピューターの、計算活動こそが自己なのだ、という説もきいた。わたし、というのは「このわたし」、という言葉によってなざされた時にだけ現れるようなひとつの質感、ひとつのクオリアなのだ、という説も読んだ。しかしそれらはわたしだろうか?

 それらはみんな、違う定義上のわたし。だが、最初にわたしという言葉がさししめしているもの、このわたしについて思考するもの、そもそもの思考そのものを、内面的に顧みると、そこには、思考そのものが生まれてくるような時空間がある、言葉が言葉になる前の場所がある。感覚器官が何かを感じるよりも前の場所があるように感じられる。場所というより穴だろうか。 

 結局のところそこはわたしの外部ではないか、それはわたしの中で、というかわたし、という言葉が便宜上さししめしているものの中で生まれてくる自然現象ではないか。それは火山の噴火や雨や雪と、植物や鉱物の成長と、同じような現象なのではないか、言葉が後天的なもの、社会的なもの、社会のコミュニケーションのシステムの中で獲得していく様々なパターンの運用方法だとして、それに運ばれるもの、このわたしという他人の中でそれを運ぶものは、わたしがそれ自体であるせいで十分に知覚できないような、純粋な自然現象なのではないか。

 そして、この細胞や微生物の生態系としてのこのわたしについて今言えることは、他の人たちにとっても同じではないか、と思う。このわたしの身体をつくっている細胞のひとつから見ればこのわたしは、その細胞の感受できる感受性の限界、感受性全体の地平線の向こう側であり、細胞自身の背景の向こう側であり、さきほどの繰り返しにはなるが、地球から見れば地球という巨大な生態系に住み着いている微生物であり、もし地球と同じ大きさの人間が存在するのなら、その人間にとってはわたしは、かなり高性能の顕微鏡のようなものを使わないと、その存在すらも確認できないような、人間にとってのミトコンドリアのようなものではないか。

 わたしが人間を微生物というのは、宇宙や地球という物理的なものさしで測れば、とても極微的な存在でしかないからだ。そういう人間の中にミトコンドリアや腸内細菌やライノウイルスが棲んでいる。つまり微生物の中に微生物がいる。この物理的な秩序の中で、たまたま一定の物質的なスケールにおいて、たまたまある程度なだけ強固な結束力を持った、集合組織のことを、生物といい、人間といい、その一つが自分のことをわたしと呼んでいるだけだろうか、そうとも言えるかもしれない。

 だがそのようにして、このわたしを突き放し、このわたしを取り巻いている環境世界全体と、溶け合い、消滅させている、そういうわたしのこの活動は、どのような名前をつけるのがふさわしいのだろう。

 それは思考という、人類の普遍的な営みの中での、その普遍性の証人であるようなものの一例ということなのだろうか、それは物質というものの織り成す営み全体の中で微視的に切り出された、一定の特徴を持った連続性の一つなのだろうか、その連続性の一つが、身体と科学と思考の地平線を広げて、自分自身の感受性を、宇宙全体にまで広げることで、宇宙と自分を交換するということだろうか。交換というのはつまり、わたしが宇宙を感じている時、わたしはわたしを考えないのだから。

 この感受性が体験していく時空間。それは一つの四次元的な世界線だ。もしわたしを素粒子のように考えるなら。一粒の砂に世界を見て、一輪の野の花に天を見る、という昔の神秘家のことばがある、だが、わたしはひとつぶのわたしであることによって、永遠にわたしの感じられる限りの全世界を見る。わたしの網膜にとどく光が、光の粒子が伝えてくれる時空間の情報を、様々な間接的な装置が再構成し、説明してくれる空間を見る。

 わたしは一輪の野の花、無限をとらえるてのひら、永遠を夢見る時の断片だ。すべての物理学的な現象が粒であり波であり振動する場所の関係と干渉によって構成されていて、その関係性の切れ端であるような、永遠に完結することのない、塵のような時の断片、それも自分自身のことを自覚するような時の断片でできているような、人間たち。生物たち。物質たち。素粒子たち。分解したら素粒子になるものたちが、分解したら素粒子になってしまう電車に乗る、繁華街を歩く、友人と話す。彼らのすべてがそうなのだ、すべての人が、世界を見ている砂粒で、世界を己自身の世界線から観測し、それまでの観測結果を不断にフィードバックしながら再構成して、世界の、宇宙の姿をモデリングしている。

 そうしてわたしは、人という種族の思考活動の在り方を、外側から見ているような気分で内側から見ている。まるで幽体離脱でもするかのように。なんて奇妙ないきものだろう、人間というのは!あなたはあなたなりに、わたしはわたしなりに、宇宙のヴィジョンを、世界の姿を、五感のうちで、意識のうちで、記憶のうちで、シミュレートしている。決して交わることのない別々の世界線から、この世界を観測し、その結果をフィードバックしあっている、人という、いわばセンサー付の奇妙な生体コンピューターが雲のように集まって、言語という名の、集合記憶という名の、文化という名の、ネットワーク上の仮想的な現実の中で、情報を交換しあっている。そしてそれがフィジカルで具体的な空間に影響を及ぼしている。だがこのフィジカルなものはどこまで現実だろうか?わたしが純粋に感じ取ることのできるものが現実の謂いだろうか、だがそれは感覚や言語の恣意性から自由とは言えない。言葉を知らなければ、別の知覚組織を持っていれば、今見ているように現実を見ないし考えもしないのだから。

 これは現実と言えるだろうか、もちろん現実と言うのは自由だ。だがこれは、現実とたやすく名付けてしまうのには、あまりにも謎だ。名付けようとする言葉が迷い込むような事物のことをそう呼ぶのなら、確かにそれは、謎というのがふさわしい。

 この謎は答えのない問いかけということになるだろう、答えがない問いかけをするのなら、黙っているのと同じだろうか、しかしながら、答えがなくても何かを話しているほうが、何も言わずに黙っているよりかは、活動している分だけ生きているという感じがする。この場合生きている方が死んでいるより落ち着くし安心する。

 ・・・なるほど、では安心すれば人は思考を中断するというわけだ。なんて奇妙ないきものだろう、人というのは。わたしたちは必要以上に知る必要を知らない。しかもそのことを自覚せずとも知っている。言い換えればそういう風にして、人は自分の知ることに制限をかけている。

 けれどもわたしには、そういうことさえ奇妙に思えて仕方ない、それでいて、奇妙でないことがなんなのかさえ、わかりもしない。知れば知るほど、学んでいけば学んでいくほど、わたしにはわけがわからなくなる。

(2018年)

 

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note転載40 ひとのいとなみ

どこにも証人がいなくても、誰からも承認されなくても、
わたしをおぼえている人がいなくなっても、
このわたしがここにいた事実は消えない、
事実は事実なのだから。

そういう意味では、
人の行いは永遠に消えない、
人類が絶滅して、
生物が滅びて、
地球が滅びて、
この宇宙が滅びても、
それらが実際にこのようにここにあったことは消えない、
永遠に。

人権、人の尊厳、それは人工的な概念だ、
でもなぜその概念があるのか、
それは、あなたがかけがえのない生き物だからだ、
そういう風に、
どこかのだれかが感じるからだ、
どこかのわたしが感じるからだ、
あなたがどんなあなたであっても、
そこにいたあなたがそういう風に感じられ、
そういう風に思われたことは、
確かに多かったのだ、
それは今この言葉を読んでいる
あなたが死んでも変わらないからだ、
そして、他の人も、人という生き物である以上、
あなたとそんなにかわらないから、
状況さえそろえば、
別にあなたと呼ばれていたのだ、

言葉は、
ひとという種族のいとなみによりそっている、
言葉の意味は、
ひとという種族のいとなみによりそわれている、

わたしたちは
よりそわれているものなしに、
意味を伝えることがない。

(2018年)

 

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note転載39 わたる

わたしは、あなたにわたしをはなしかけることで、
わたしというみちを、かざりつけていく、
まなざしのむこうで、かんがえながら、
くらがりのおくにひいていく、あなたは、
はなされてさいている、そこでだまっている、
いくつかのわたしを、かぜになってとおりすぎる、
そのどこかでおりかえしてこしをかがめる、
ひざをおとして、
わたされてそこにさいているものについて、
むかえいれる、
しらないということを、
おしだまるということを、
みちてはひいていくもののことを、
そこからうまれるひとすじのことを、
さいたかずのぶんだけわたしたちはみちになり、
そこでわたされたものが、あらわれる、
しおのうねりのどこかでさいたみちを、
あなたはわたる、わたしをわたる、
あなたをわたる、

わたしたちはそのぶんだけ、
いつまでもえだわかれする、
うんでいくもののほとりで、
ようみゃくのように、
けっかんのように、
みおをひくように、
むげんのようにさいぶんかする、
そういうみちを、

わたしたものたちと、
わたされたものたちのあるく、
そういうわたしを。

(2018年)

 

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note転載38 結婚と結婚という文字について、あとポポイその他について(2018年)

(このエッセイはとある友人の結婚を祝うために書いたものです)

XXXさん、ご結婚おめでとうございます!

 はい――という訳で。今日はですね、この場所をお借りして、結婚について、というか、結婚、という文字について考えてみようと思います。なので、これからそういうことについて、書きますね。

 といってもわたしは文字についてはそんなに詳しくないです。ネットで適当に調べてみましょう。あまりアカデミックな信ぴょう性には欠けている気がしますが、まあ自分が思いつかない事もきっと書いてあるんじゃね、と思いますからね。

では「結婚」という文字について。はい。

(10分くらい経過)

 はい。どうやら「結」という字は、もともとは「糸」で「吉」を堅く結びつける、という意味だったみたいです。で、「婚」という字は、女偏に「昏」と書きますよね。中国では、結婚の儀式は夕暮れ時に行われ、夜には、夫婦として結ばれる、という習慣があったんだそうです。だから結婚って言うんだって。今googleで、「結婚 語源」で調べたらそう書いてありました。ところで、「結」という文字は、日本語では「むすぶ」という言葉で訓読されます。

 で、どうもネットとかいろいろな本を読んでみると、「むすぶ」という言葉は、「苔生(む)す」という言葉があるように、語源的には「生まれる」という意味があったみたいです。日本神話には「高御産巣神(たかみむすびのかみ)」とか「神産巣日神(かみむすびのかみ」という神が、「創造」を神格化した神として最初から出てきますしね。これについてもう少し書くと、うろ覚えで恐縮ですが、むすびは古くは産霊(むすひ)と書き、古代の日本人は(「日本」という言葉が出てくるのは7世紀後半らしいので、その前の人は倭人とかになるのかもしれませんが)天地自体とそこに生まれるすべてのものを生み出し育てていく、そして完成させていく、なんか霊的な力みたいなものがこの世にはあると感じていたらしくて、それを産霊と呼んでいたみたいですね。

 ものというか神というかよくわからないものですが、江戸時代に古事記を研究したことで知られる本居宣長という人は「産霊とは、すべて物を生成すことの霊異なる神霊(みたま)を申すなり」とか書いていて、わたしなんかはなんかオカルティックで楽しいなあなどと考えてしまいます。あと、娘はむす・め、息子はむす・こで、生まれた子とか生まれた女とかそういう意味だったらしいですね。

 さて、「結」という字がもともと「吉」を「糸」で結びつける、という意味なら、語源としての、つまり「生まれる、生まれた」などの「むすぶ」とはだいぶ違いますね。これは無論、「結ぶ」の二義的な意味―ーひもなどの両端を絡ませて繋ぐーーが日常的に使われていたために、そっちの意味に呼応する漢字を、中国語から持ってきたのでしょうね。そうすると、漢字によって、日本語の中のもともとの意味が隠れてしまう、という事も言えます
。もちろん逆に、漢字の部分をかっこにいれると、日本語のもともとの意味の関係が見えてくる、ということもいえるし、この漢字とひらがなの混在には、中国語の奥底に浮かび上がる古代中国の世界観や生活感と、日本語の奥底からにじみ出る古代日本の世界観や生活感が、じつは隠れて混在していることでもある、とも言えます。ただ、漢字によって、日本語の語源は見えづらくなっている、とは言えるでしょう。

 むすぶ。ではなぜ、生まれる、という意味の言葉が、何か紐状のものを結ぶ、という意味に転じたのか。万葉集には、むすぶ、という言葉が出てくる歌がいくつかあります。

 「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」

意味:磐代の浜の松の枝を結び、輪を作って帰ってくるみたいに運よく無事だったら、また帰ってきて見るよ。
  
「淡路の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す」

意味:淡路の野島の崎に吹く冷たい浜風に、妻が結んでくれた紐がひるがえっているよ。

 「ふたりして 結びし紐を ひとりして (あ)れは解きみじ 直(ただ)に逢ふまでは」
         
意味:二人で結び合った着物の紐を独りで決して解いたりはするまい、また会うまでは。

 はい。どうも古代の日本においては、旅に出る時に、松の枝を結ぶことで旅人の安全を祈ったり、男女が長く逢えない時に、互いに相手の紐を結んで無事を祈ったり、男女が旅などで別れ別れになる時、衣類の紐をお互いに結び合わせ、再会した時に解き交わしたりしていたみたいですね。紐をむすぶことでお互いの魂をその中に籠めていたらしい。

 昔の人の言葉なので、意味や語源は正直あまり断言はできないけど、民俗学者折口信夫の説によれば、水を両手のひらで掬って(すくって)飲む動作を『水を掬ぶ(むすぶ)』と言い、水の中に霊魂を入れてそれを人間の体の中に入れることで、体と霊魂を結合させるという意味があったそうです。その動作をした者は非常な威力を発揮すると。この水の「掬び」と何かを結んだり結合する意の「結び」には、深いつながりがあり、そもそもある内容のあるものを外部に逸脱しないようにした外的な形を「むすび」という言葉で表現していた、という事のようです。折口的には。つまり「霊的な力を籠めて外に出さないようにする形」でもあると。これは万葉集のむすびがでてくる歌には一応矛盾はしてない説だなと思います。ちなみにむすひ、いうのは、「むす(生まれるという意味)」+「ひ(霊という意味)」でできていて、ひもというのは「ひ(霊という意味)」+「も(裳と書き、裳裾の裳)という説があったり、「秘める(霊能の意味)」+「緒」でひめをというのがなまってひもと言ったという説があったりするみたいですね。むすびにもひもにも霊という意味合いが宿っているわけです。

 で、これはネットに載ってた記事なので信ぴょう性は不明だけど、おにぎりのことを「おむすび」というのも、古代の日本人は米に霊的で生命的な力が宿ると信じていたので、それを中に籠めている的な意味がある、とか、むすびの神が山にいると信じられていたから三角形のおにぎりの事をおむすびというとか、いくつか説があるみたいです(※ちなみに日本おにぎり協会のホームページには、関東から東海道にかけてはおにぎりのことをおむすびと呼ぶ、と書いてありました。ぜ、全国的な言葉じゃなかったのか・・)。

 日本語の語源を調べてみると、古代の人が世界ー―自然をどういう風に見て、肌で感じていたのかある程度わかり、そういう知識というか、むしろ感覚的なフィルターを通して古事記万葉集などを読むと、結構変な世界が広がっているんだな、と思います。

 古代の人にとっては、むすぶ、という言葉は、生まれること、何か紐状のものをむすぶこと、霊魂を込めること、つなぐことなどの意味合いがあったらしいです。あるいは、何かを結ぶこと、結び目に霊的な力が生まれたり籠められたりする、という信仰を持っていたらしい。何かを結ぶことで形ができて、そこに霊的なものが籠められる、とか、そういう感じなのでしょうか。結婚も、人と人とが縁を結び、夫婦という新しいものが生まれる、そこにお互いの魂、というか願いが籠められる、というような意味では、「むすぶ」の語源的な意味も派生的な意味も当てはまっている、と、こじつけ感はあるかもしれないけど、言えるかもしれません。

 というわけで、話を戻すと、やっぱり結婚はめでたいですね。さて、めでたい、という言葉はもともとはどういう由来なのだろう、これはどうも、愛ず(めず)という言葉からきているみたいですね。そして、めずらしい、という言葉は、愛ず、の形容詞形で、好ましくて、もっと見ていたい、という意味が転じて、まれなもの、稀有なもの、という意味になったらしい。さて、その愛ず、ですが、もともとは誉める、という意味で、その「愛で」に程度をあらわす「いたし」がついて「めでいたし」になり、それが縮まって「めでたい」になった、という事らしい。目出度い、というのは後世の当て字で、「大変すばらしい」という意味に今はなっている、という事みたいです。なるほど。では「素晴らしい」という言葉はもともとはどういう意味だったのか。実はこれはもともとは、いわば「素晴らしくない」意味だったみたいです。つまり、ちぢむ、とか小さくなる、という意味の、「すぼむ」とか「みすぼらしい」という意味から「あきれるほど~」とか「すごい~」というような意味になり、そこからネガティブな印象が抜けて程度を表す言葉になり、それで「素晴らしい」というのはむしろポジティブな意味で程度がすごい、という事になったのだそうです。ちなみに素晴、というのは後世の当て字です。言葉の意味というのは、時代とか使われ方によって変わっていくものですね。

 そういえば、さっきの本居宣長が言っていることですが、「あわれ」という言葉は「悲しい」というようなニュアンスがありますが、もともとはただ単に「すごい」とか「心に残る」という意味だったということだそうですね。「あは」という感動語に接尾語の「れ」がついて、心の底から湧き出る感情を表したのだそうです。

ではなぜ「悲しい」となったかと言うと、本居宣長によれば、「人生の経験というのはどちらかといえば悲しい事の方が心に残ってしまうので、あわれ、というと次第に、「かなしい」を意味する言葉になってしまった」ということのようです。なるほど、確かに悲しい事や辛い事の方が心に深く刻まれるというのはなんだかわからないでもないですね。とはいえ、嬉しいことや楽しいことあるいはすばらしいことは、むしろ「あっぱれ」という言葉が生まれてそっちで使われた、というのもあるみたいです。あわれがなまってあっぱれ!になったと。確かに、こちらの方が跳躍感があり、語感が明るいですね。あっぱれ。あっぱれ。あっぱれ!あっぱれ!!・・・ふう、やっぱり「ぱ行」の言葉がつくと、テンションがパない、ていうか、頭パー感があるというか、いやなんかもうパリピ感があるというか。しかも、あぱれ!じゃなくて、あっぱれ!っていう、小さい「っ」がある事で跳躍感があるので、そこもポイント高いって感じがします。やっぱさ。ナパよりナッパだし。スパよりスッパだし。ペパよりペッパーじゃね?アパよりアッパーの方がいいよね。語感だけど。クパじゃなくてクッパ。チュパチャプスじゃなくてチュッパチャップス。やっぱりつっぱりかっぱらい。パリっ子たちがクッパたちと一緒にパーティー券を売っぱらう、うん、「ぱりっ」て言葉はいいよね。まあなんかこう、ぱりっとしていて。うわっぱりをきたつっぱりたちのぱしりにさせられ、パリのパン屋を、こっぱみじんにぱりぱりにする。さっぱり妖精たちといっしょに、すっぱい気持ちのスパイスたちを、ぱらぱらふりまく、アパラチア山脈で吊り橋をわたっていくパラノイアたちみたいに、あっぱれな気分で。ことあるごとに、「このあっぱれ野郎!」とか言いながら。

 いや、失礼、パ行の言葉のせいで、よくわからないテンションになってしまいましたが、やはりパ行の言葉には強い力があるんじゃないでしょうか。「あいうえお」とか「かきくけこ」とかいうより「ぱぴぷぺぽ!」とか大声で叫んだ方が破壊力強くないでしょうか。みなさんの中には、昔、東日本大震災の時に、TVのCMで流れた「ぽぽぽぽーん!」という言葉が、人々の脳裏に無駄に焼き付いて、無駄に流行した、という事件が起きたことを覚えておられる方もいると思います。もっと正確に言えば、あれは「ぽぅおぽぽぽぅおーん!!」でした。みなさんもご存知かと思います、ポの字の力を。ポンキッキポリンキーモノポリー、ポッキー、デコポン味ぽんポンデリングポン・ジュノポンティアックにメルロ・ポンティーポメラニアンおもひでぽろぽろ、ぽんぽんが痛い、こぎつねコンとこだぬきポンという絵本が昔家にありましたーーそう、ポ、という字は人をして恐ろしいハイテンションにさせないではおきません。すっぽんぽんになってヒロポンを打ちながらトランポリンをする人みたいに。昔の漫画とか読んでたら「あいつはおまえにほの字だぜ!」って言葉がでてきたことがありますが、「あいつはおまえにポの字だぜ!」の方がずっとテンションが高くて良い気がします。なんの意味だかよくわからないけど。

 そうそう、ぽ関係で、わたしの特に好きな言葉で、時々大声で言いたくなる言葉があります。それは古代ギリシア語で、古代ギリシャの戯曲に出てくるのですが、岩波文庫からでている「タウリケーのイーピゲネイアー」という、エウリピデスの作品の中で、悲嘆にくれたヒロインの王女様が「ポポイ!」という台詞を言うのを目にした時、ああ、わたしはなんてテンションがあがったことでしょう!なんてかわいい言葉かと思った事を覚えています。なんかちちんぷいぷい的な、藤子不二雄の漫画でチンプイっているけどその亜種みたいな響きで、口ずさむだけで、語源通りの愛でたい、愛づらしい気分になります。

 ーしかしながらこの「ポポイ」という言葉は、格調高いギリシャ悲劇の古典の中で、実に悲嘆にくれた時の感嘆詞として使われていたのでした。つまり、ああ!かなしい!あわれなり!!的な意味で使われており、英語ではAlas!というのと同じような意味だと思われます。原作の格調の高さ、台無し。そういうわけでわたしは、この古代ギリシャの言葉について、何かチンプイの亜種みたいなかわいい生き物が、悲しそうな表情をさせて、「ポポイ!」と大声で叫んでいる姿を想像します・・・うーん、やっぱかわいいですね。うん、なんというかこれは、本人的にはめっちゃ悲しくて必死なのに、全体的にかわいくてマヌケでちょっぴりオチャメな容姿をしているせいで、まわりの人々からあんまりまともに相手にされなくて、思わず、夜に近所の誰もいない公園で、「ポポイ!」と言いながら、藤子不二雄の漫画に出てくるかわいい変なキャラがだいたいしているようなそのかわいい手、あのジャンケンでは必ずグー以外を出すことができないあの丸っこい手、あの手ですべり台を殴っている姿が目に浮かびます。

 まあ、わたしにとって、ポポイはだいたいそんな感じなのです。ーーとはいえ、ここまで見てきたように、単語の意味は時の流れによって、そしてどう使われてきたかによって変わっていくものなのでしょうね。よって人々が、ポポイ!をかわいい意味合いで使いたい、そんなわたしの意を汲んでくれて、みんなで日常的に何かかわいい意味合いでつかってくれれば、この言葉はあの古代ギリシャの暗い呪縛から解き放たれていくでしょう。たとえば「今日きみが着ているワンピースはとってもきれいでかわいいね、僕ときたら本当にポポイになりそうだよ!」とか、「もー!あいつったら普段は不愛想でおめでたくてみすぼらしくて語源の方のすばらしい奴のくせに、二人っきりでいる時だけは超ポポイなの!振り回されっぱなし!やってられないわよ!」とか言われた日には、うん、本当だよね、なんかよくわかんないけどそんなポポイだったら僕もやってられないよ、とか、言いたくなってしまうことでしょう。そう、そういう風に、ポポイの意味もいろんな状況で使われていくことで、意味合いも変わっていくのだと思います。実際、その言葉の最初の意味が、最後の意味まで規定するなんて必要はないのですから。

 さて、ポポイのせいで、よくわからないテンションになったけど、言葉は、使われ方によって意味合いが変わっていくので、裏を返すと、ある言葉は、その言葉がある特定の使われ方で響いていた時代の空気感や世界観や、ひとびとの暮らしなどが、そこに宿っているのだと言えると思います。「結婚」という言葉は、いったい、何百億回、人の口からのぼったことでしょう、仮に、一人の人間の人生の中で、結婚という言葉が、一万回ほど使われたとします。そこには一万回、結婚、という言葉が使われる、それぞれ微妙に異なった文脈なり状態なりがあったと言えます。勿論その中には、血痕、という言葉をキーボードで打とうとして結婚になったり、けっこうです、と言おうとして、けっこんです、と言い間違えたりしたこともあったかもしれませんが。

 様々な空間と時間を超えて、様々な人々の世界線の中で結婚という言葉は今でも響き続けている事でしょう。それだから、血痕、じゃなかった結婚という単語を見ただけで、わたしたちはそれがどういう意味を表しているかをすぐ理解します。そういう事を考えてると世の中ってすごいなあと思います。
しみじみしてきます。でもこの原稿書いてたらもう夜遅くなってきたし明日仕事だからもう眠りたいです。なんだろう結婚って。わけがわからないよ。なんて世界は広いんだろう、なんて世界はよくわからないんだろう、周りで人々が次々に結婚したりしていくんだけど、こんなテンションが不安定に上下するわたしにも、いつか旅に出る時に紐を結んでくれる人はあらわれるのでしょうか。きみたち人間はいつもそうだね、そんなことわからないよ。と、ポポイの奴から言われそうですがー―でも、意味不明だからこそ、意味が生まれる余地があり、使い道がよくわからないものがあっても、使われていくうちに、どういうものか、人々に理解されていくこともあります。未来のことはわからない、というのは、未来がある、という意味ではなくて何でしょうか。

 最後に、個人の歴史をとってみても、結婚、という単語は意味合いを変えていくこともあると思います。例えば、不幸な結婚の末にあなたが離婚したら、結婚という言葉はあなた的には不幸を意味する言葉になりうるし、幸福な結婚生活であれば、結婚という単語には、幸福なほの明かりが後光のように灯されることでしょう。またあなたが特に結婚とかしてない人であっても、周りにいる結婚している人たちが、不幸だったり幸福だったりすることによって、意味がかわってきたりもするでしょう、未来の事は誰にもわかりません、それが未来というものだから。なんだろう結婚って。わけがわからないよ。それが結婚というものだから――でも、そう、願わくば、人々の結婚が、そしてこの結婚が、めでたく、すばらしく、そして語源的な意味でのめずらしい結婚の意味合いを、結んで護っていきますように。

 以上を持って、今回の話の結びとしましょう。

ではポポイ!

 

 

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(執筆:2018年3月)

note転載37 セフィロトの、ときじくの香の、世界樹の

様々な細部に至るまで、まことしやかにカミ宿らせて、宿り木みたいに清らかに、宿るヒタイに秘められて、さかさになった、五月雨みたいにしらしらと、鳴りそめている、樹の子のムスコたちが、樹の葉のムスメたちが、むすびついてはコケムシて、言祝ぐように、歌い継ぐ、常世の雲居をつらぬいて、無限の高さの世界樹の、無言の梢の節々で、末黒(すぐろ)くなっては、枝分かれていく、樹の幹で、小鳥みたいに、さえずっている、その声のトーンは、ものうい光をあたためている、彼らのまなこは、穴のように盲目いていて、蒼白く冷たいさざれ石に囲まれて、色とりどりの、蘚苔類に飾られている、神さびている、ヒマラヤ山脈のように巨大な、世界樹の麓にある、高円寺北口のロータリーで、ネコジャラシたちが、エノコログサが、寂しそうな面持ちをして、猫たちの緩やかな前足が、ここまで遊びにやってくるのを待っていた。そこらじゅうで、風のように微笑していた、何の意図も持たず、誰にむけられたわけでもないその非人間的な笑いを、笑いと呼べればのはなしだけれども、この薄緑色の繊細な雑草たちは、ただ自分たちの有機的な複雑さを風に薫らせていた。

 わたしは歩いていた。その踵は青ざめた石英質の敷石を踏みしめていた。世界樹に侵蝕された北口の商店街の天空に広がる蒼空の下を。この透明な世界樹の透明な世界性に心を奪われたまま、特定の神を失ったものに残されたセフィロトの樹の遥かなる遠大さを感じながら。今やわたしは、西の方から吹き付けてくる、ヤマオロシに長い髪を靡(なび)かせる、ヤマタノオロチの一族の末裔の、ヤマカガシになったような気分だった。祖先たちの、悲しい遺伝情報(ゲノム)を宿したこの小さなヤマカガシの肉体は、雨だれみたいに、記憶、という単語が連想させるガラスでできた窓の上に、やわらかい引き摺り跡を残していくのだ。

 調子に乗った拍子に拍子抜けしてうっかり魂を抜き取られてしまう、そんな性癖だったから、もうその次の瞬間には、わたしは雑司ヶ谷の森を統べる、八王子の国からやってきた王子の一人だった、そこに棲んでいる死霊たちと自由自在に交信できる、ネクロマンサーの御曹司だった、雑司ヶ谷、そこは住宅街と墓地と古さびた道と神々とが、美しい爬虫類の皮膚みたいに、まだら模様をかたちづくっている土地だった、一言でいえば住宅街だった。そして、この自分をヤマタノオロチの末裔のヤマカガシだと思い込んでいる青年の内面では、鳥羽口のはずれた言葉のアヤが、滝つぼみたいに、泡(あぶく)を立ててはほとばしり、まだ生暖かい、アスファルトで覆われた路面の上を、住宅街をいわばしり、コンクリート構造だとか、漆喰モルタル構造だとか、RC建築だとかプレハブだとかの様々な壁の上を、ずるずると上下動して、いわばしり、昨日の雨が残していった、水溜りに映し出された空の上では、ネコジャラシたちの繊細な薄緑色が風に揺れ――その背景には、肉眼では見ることのできない、ユグドラシルがどこまでもそびえ、まるでカッパドキアにある岩窟住居群のようにも、あまりにも巨大すぎる樹木でつくった、超未来的な集合住宅にも見えた。この有機的なバベルの塔の、そこらそこらの麓では、様々な彩度と色合いと老化と風化の度合いをみせながら、さまざまな種類の寒色系の色をしている樹の子のムスコたちや、様々な種類の暖色系の色をしている樹の葉のムスメたちが、自分自身の自律的な意識を持った、蔦(つた)や葛(かずら)や海老蔓(えびづる)みたいに、むすびついてはコケムシていた。それはあたかも、ひらべったい鶯色をした、多種多様な珊瑚たちの群生のよう、もしくは遠い惑星の地表に建設された異星人たちの植民都市のように、有機的であることと鉱物的であることを、奇妙に両立させていた。それは、何かとても集合的で組織的で、無意識的な憎悪のような、歓喜のような、寒気のような、愁いのような、そういう叫びをあげていた。

「ああ、世界樹というのは、きっと世界ジュウでもあって、宇宙ジュウでもあって、それは世界や宇宙が一匹の獣である、という意味でもあり、世界中にはいたるところで、様々なもののけが、いっぱいに実っている、という意味でもあり、樹木というのは呼吸する機械で生物でもあるのだ、世界が複雑な法則性と関係性によって成り立っているということであり、それは産霊のチカラで、様々な生命的なものたちが虫たちのように湧いてきて、地衣類みたいに生(む)していくことでもあり、ここでわたしが言っている世界樹というのは、わたしたちの神経よりも、もっと微細な、伸縮自在の、無限の、梢なのだ、それは枝分かれしていくものすべて、樹の比喩を使うことのできるものすべてに、現れるような何かなのだ、それは生す子であって、生す木(こ)であって、生す呼(こ)でもある、それは生す女(め)であって、生す芽であって、生す眼でもある、それはヤマタノオロチのように、ヒドラのように、枝分かれする、世界樹というのは、無限の首を持って飛ぶ龍であり、その首は、どこまでも、どこまでも、蜘蛛の糸よりも繊細になり、いかなる気流よりも曖昧になる、それはヒマラヤ山脈よりもずっと大きく、それは道が分かれていくということ、分かれた道が、合流すること、それは世界を支配する見えない関係性のネットワークのことであり、人の思考のあり方のすべてをも含めた、自然における法則性のシステム全般のことでもあり、そしてパターンというのは、それが適用される対象における大小を問わないのだ、たとえば人間の血管や葉脈の流れや河の流れが、同じように分岐していき、またその分岐の縮小コピーみたいな小さな枝分かれを、自分自身の中に、次々に作っていくのを見るように――内容は違えどよくにた形が、そこで生まれる」

 そういうことを考えるわたしは33歳の、今務めている仕事を辞めようか迷っている青年だった。そしてこの青年は、池袋駅東口を右折して、古本屋やコーヒーショップやオフィスビルの連なる坂道を下って、都電荒川線の踏切をわたって、少し起伏に富んでいる坂道を上り下りして、歩いていた。

 ある坂道を上っていくと、なにか水煙のようなものが立っているのが見えた。どこかの神社の境内になっているようだった。大勢の人通りがあった。なにか見覚えのある人たちがいるな、と思ってよく目を凝らすと、七夕祀りで、ナタをふるって踊っては、彼方の駅まで血祭に上げる、カナダ帰りの鬼子母神が、神田生まれの黒雪姫や、カンジタにかかった八十神(やそがみ)たちや、耶蘇神(やそしん)たちと、ベンチに座って、シャンソンの演奏に耳をそばだてながら、シャボン玉を吹いていた。知らないバンドマンたちが、ギターやアコーディオンを奏でていた。背後では、丈の高い、おおきなカンナが、赤みがかった橙色を咲かせていた。その神社は縁日で、エニシダの樹に囲まれて、沢山の屋台が、順序良く並んでいた。それは黒い宇宙にまたたいている、太陽系の惑星たちみたいだとわたしは思った。神々の吹き流したシャボン玉の透明な球体が、次々に蒼空を登っていく。それはまるで重力から解き放たれた球体、玉虫色に透き通った遊星だった。文字通りにふわふわと風に遊んでいく、虹色の泡たち――神々が一斉にシャボン玉をフーっと吹くと、大量の泡がフーっと空気中に放出されるので、それはまるで珊瑚の産卵を思わせた。鼻腔をかすめる石鹸の匂い――それは空気を清潔に磨いた。

 賑やかな境内は、曖昧なきらめきにふんわりとつつまれていた。夢遊病にかかったこどものように、わたしはあたりをふらついていた。ある屋台ではリンゴアメやチョコバナナが、別の屋台ではポケモン妖怪ウォッチのお面が売られていた。つぎつぎにはじけては消えていく泡たちを浴びるようにして、談笑しながら歩いているのは、色とりどりの、浴衣をきている女の子たちだった。その日わたしが迷い込んだのは雑司ヶ谷にある鬼子母神のお堂で、境内の団子屋で名物のおせん団子を注文すると、お茶と一緒に、餡子と御手洗団子が、一串ずつでてくるのだった。あんこの方がおいしい、そう思いながら、おみくじを引いて、お参りをした。

 わたしは、眼からも鱗が生えてきて、メガラの土地のゴルゴン姉妹になったり、日高山の上流を流れる、目高(メダカ)になったり、朝から晩までがやがやしている阿佐ヶ谷駅で、旗振り仕事をして働いている、花売り娘と話こんでいた。

(2017年執筆 2018年完成)

 

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note転載36 しられない、シルフのシイタのシタサキで

いつでもどこでも、シラフのふりして、知らんぷりして、ブラフをかけてしまう、いつでもどこでも、大事なことを、しらべもしないで、しらせもしないで、しらをきってしまう、とってもすなおな、わたしたちの愛は、ミロクのシルクの糸よりも、地獄の天からおりてくる、蜘蛛の糸よりも、切実なしらべだったから、ひたぶるなシラブルで、ふるふる震えて、くたびれた風邪ひきのような心地で、いつでも自分の名前をさがしている、わたしは、さみしいシルフになったみたいに、わたしに会ったことのある人のなかにならどこにでも、神出鬼没な、わたしを見つけたの。

 白雪、白百合、冷や雪、根雪、それはみな、たくさんのしを隠して、しめしあわせたみたいに、降っていた、羽のようにつもっていった、シンシツで、シリウス、シリトリ、シラトリたちに、つつまれながら、わたしは自分がかくれているのか、むしろ自分ではないものがどこかにいなくなってしまったのか、分からなかった。

 そんなわたしのシンジツは、宇宙と同じ大きさをした、井戸の底をさまよっている微生物みたいだったの、幾何学的な座標軸の上をさまよっている、数学上の一点みたいだった、その一点は、スズムシたちの鳴き声の、やわらかく白っぽい金属質の水深のどこかで、溺れていた、しんじてくれた??わたしは、まるで、赤子のように純粋無垢な分からずやたちがクリスタル質の軒をつらねている、そんなパサージュのどこかで咲いている、スイカズラノウゼンカズラのシズクに融けていたのね。

 水の泡になったたくさんのわからずやたち、それは、わたしのなかで、ひんやりとしたダイヤモンドでできている、大納言といっしょに、清潔で涼しいことでしられる清涼殿で、しずかなシーツにくるまっていたの。しっとりと、薄荷の薫りのする、やわらかいハツカネズミみたいに、ハリガネソウや、ツリガネソウの、白い花弁を、みちしるべにして。

(2017年執筆 2018年完成)

 

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