note転載37 セフィロトの、ときじくの香の、世界樹の

様々な細部に至るまで、まことしやかにカミ宿らせて、宿り木みたいに清らかに、宿るヒタイに秘められて、さかさになった、五月雨みたいにしらしらと、鳴りそめている、樹の子のムスコたちが、樹の葉のムスメたちが、むすびついてはコケムシて、言祝ぐように、歌い継ぐ、常世の雲居をつらぬいて、無限の高さの世界樹の、無言の梢の節々で、末黒(すぐろ)くなっては、枝分かれていく、樹の幹で、小鳥みたいに、さえずっている、その声のトーンは、ものうい光をあたためている、彼らのまなこは、穴のように盲目いていて、蒼白く冷たいさざれ石に囲まれて、色とりどりの、蘚苔類に飾られている、神さびている、ヒマラヤ山脈のように巨大な、世界樹の麓にある、高円寺北口のロータリーで、ネコジャラシたちが、エノコログサが、寂しそうな面持ちをして、猫たちの緩やかな前足が、ここまで遊びにやってくるのを待っていた。そこらじゅうで、風のように微笑していた、何の意図も持たず、誰にむけられたわけでもないその非人間的な笑いを、笑いと呼べればのはなしだけれども、この薄緑色の繊細な雑草たちは、ただ自分たちの有機的な複雑さを風に薫らせていた。

 わたしは歩いていた。その踵は青ざめた石英質の敷石を踏みしめていた。世界樹に侵蝕された北口の商店街の天空に広がる蒼空の下を。この透明な世界樹の透明な世界性に心を奪われたまま、特定の神を失ったものに残されたセフィロトの樹の遥かなる遠大さを感じながら。今やわたしは、西の方から吹き付けてくる、ヤマオロシに長い髪を靡(なび)かせる、ヤマタノオロチの一族の末裔の、ヤマカガシになったような気分だった。祖先たちの、悲しい遺伝情報(ゲノム)を宿したこの小さなヤマカガシの肉体は、雨だれみたいに、記憶、という単語が連想させるガラスでできた窓の上に、やわらかい引き摺り跡を残していくのだ。

 調子に乗った拍子に拍子抜けしてうっかり魂を抜き取られてしまう、そんな性癖だったから、もうその次の瞬間には、わたしは雑司ヶ谷の森を統べる、八王子の国からやってきた王子の一人だった、そこに棲んでいる死霊たちと自由自在に交信できる、ネクロマンサーの御曹司だった、雑司ヶ谷、そこは住宅街と墓地と古さびた道と神々とが、美しい爬虫類の皮膚みたいに、まだら模様をかたちづくっている土地だった、一言でいえば住宅街だった。そして、この自分をヤマタノオロチの末裔のヤマカガシだと思い込んでいる青年の内面では、鳥羽口のはずれた言葉のアヤが、滝つぼみたいに、泡(あぶく)を立ててはほとばしり、まだ生暖かい、アスファルトで覆われた路面の上を、住宅街をいわばしり、コンクリート構造だとか、漆喰モルタル構造だとか、RC建築だとかプレハブだとかの様々な壁の上を、ずるずると上下動して、いわばしり、昨日の雨が残していった、水溜りに映し出された空の上では、ネコジャラシたちの繊細な薄緑色が風に揺れ――その背景には、肉眼では見ることのできない、ユグドラシルがどこまでもそびえ、まるでカッパドキアにある岩窟住居群のようにも、あまりにも巨大すぎる樹木でつくった、超未来的な集合住宅にも見えた。この有機的なバベルの塔の、そこらそこらの麓では、様々な彩度と色合いと老化と風化の度合いをみせながら、さまざまな種類の寒色系の色をしている樹の子のムスコたちや、様々な種類の暖色系の色をしている樹の葉のムスメたちが、自分自身の自律的な意識を持った、蔦(つた)や葛(かずら)や海老蔓(えびづる)みたいに、むすびついてはコケムシていた。それはあたかも、ひらべったい鶯色をした、多種多様な珊瑚たちの群生のよう、もしくは遠い惑星の地表に建設された異星人たちの植民都市のように、有機的であることと鉱物的であることを、奇妙に両立させていた。それは、何かとても集合的で組織的で、無意識的な憎悪のような、歓喜のような、寒気のような、愁いのような、そういう叫びをあげていた。

「ああ、世界樹というのは、きっと世界ジュウでもあって、宇宙ジュウでもあって、それは世界や宇宙が一匹の獣である、という意味でもあり、世界中にはいたるところで、様々なもののけが、いっぱいに実っている、という意味でもあり、樹木というのは呼吸する機械で生物でもあるのだ、世界が複雑な法則性と関係性によって成り立っているということであり、それは産霊のチカラで、様々な生命的なものたちが虫たちのように湧いてきて、地衣類みたいに生(む)していくことでもあり、ここでわたしが言っている世界樹というのは、わたしたちの神経よりも、もっと微細な、伸縮自在の、無限の、梢なのだ、それは枝分かれしていくものすべて、樹の比喩を使うことのできるものすべてに、現れるような何かなのだ、それは生す子であって、生す木(こ)であって、生す呼(こ)でもある、それは生す女(め)であって、生す芽であって、生す眼でもある、それはヤマタノオロチのように、ヒドラのように、枝分かれする、世界樹というのは、無限の首を持って飛ぶ龍であり、その首は、どこまでも、どこまでも、蜘蛛の糸よりも繊細になり、いかなる気流よりも曖昧になる、それはヒマラヤ山脈よりもずっと大きく、それは道が分かれていくということ、分かれた道が、合流すること、それは世界を支配する見えない関係性のネットワークのことであり、人の思考のあり方のすべてをも含めた、自然における法則性のシステム全般のことでもあり、そしてパターンというのは、それが適用される対象における大小を問わないのだ、たとえば人間の血管や葉脈の流れや河の流れが、同じように分岐していき、またその分岐の縮小コピーみたいな小さな枝分かれを、自分自身の中に、次々に作っていくのを見るように――内容は違えどよくにた形が、そこで生まれる」

 そういうことを考えるわたしは33歳の、今務めている仕事を辞めようか迷っている青年だった。そしてこの青年は、池袋駅東口を右折して、古本屋やコーヒーショップやオフィスビルの連なる坂道を下って、都電荒川線の踏切をわたって、少し起伏に富んでいる坂道を上り下りして、歩いていた。

 ある坂道を上っていくと、なにか水煙のようなものが立っているのが見えた。どこかの神社の境内になっているようだった。大勢の人通りがあった。なにか見覚えのある人たちがいるな、と思ってよく目を凝らすと、七夕祀りで、ナタをふるって踊っては、彼方の駅まで血祭に上げる、カナダ帰りの鬼子母神が、神田生まれの黒雪姫や、カンジタにかかった八十神(やそがみ)たちや、耶蘇神(やそしん)たちと、ベンチに座って、シャンソンの演奏に耳をそばだてながら、シャボン玉を吹いていた。知らないバンドマンたちが、ギターやアコーディオンを奏でていた。背後では、丈の高い、おおきなカンナが、赤みがかった橙色を咲かせていた。その神社は縁日で、エニシダの樹に囲まれて、沢山の屋台が、順序良く並んでいた。それは黒い宇宙にまたたいている、太陽系の惑星たちみたいだとわたしは思った。神々の吹き流したシャボン玉の透明な球体が、次々に蒼空を登っていく。それはまるで重力から解き放たれた球体、玉虫色に透き通った遊星だった。文字通りにふわふわと風に遊んでいく、虹色の泡たち――神々が一斉にシャボン玉をフーっと吹くと、大量の泡がフーっと空気中に放出されるので、それはまるで珊瑚の産卵を思わせた。鼻腔をかすめる石鹸の匂い――それは空気を清潔に磨いた。

 賑やかな境内は、曖昧なきらめきにふんわりとつつまれていた。夢遊病にかかったこどものように、わたしはあたりをふらついていた。ある屋台ではリンゴアメやチョコバナナが、別の屋台ではポケモン妖怪ウォッチのお面が売られていた。つぎつぎにはじけては消えていく泡たちを浴びるようにして、談笑しながら歩いているのは、色とりどりの、浴衣をきている女の子たちだった。その日わたしが迷い込んだのは雑司ヶ谷にある鬼子母神のお堂で、境内の団子屋で名物のおせん団子を注文すると、お茶と一緒に、餡子と御手洗団子が、一串ずつでてくるのだった。あんこの方がおいしい、そう思いながら、おみくじを引いて、お参りをした。

 わたしは、眼からも鱗が生えてきて、メガラの土地のゴルゴン姉妹になったり、日高山の上流を流れる、目高(メダカ)になったり、朝から晩までがやがやしている阿佐ヶ谷駅で、旗振り仕事をして働いている、花売り娘と話こんでいた。

(2017年執筆 2018年完成)

 

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