note転載38 結婚と結婚という文字について、あとポポイその他について(2018年)

(このエッセイはとある友人の結婚を祝うために書いたものです)

XXXさん、ご結婚おめでとうございます!

 はい――という訳で。今日はですね、この場所をお借りして、結婚について、というか、結婚、という文字について考えてみようと思います。なので、これからそういうことについて、書きますね。

 といってもわたしは文字についてはそんなに詳しくないです。ネットで適当に調べてみましょう。あまりアカデミックな信ぴょう性には欠けている気がしますが、まあ自分が思いつかない事もきっと書いてあるんじゃね、と思いますからね。

では「結婚」という文字について。はい。

(10分くらい経過)

 はい。どうやら「結」という字は、もともとは「糸」で「吉」を堅く結びつける、という意味だったみたいです。で、「婚」という字は、女偏に「昏」と書きますよね。中国では、結婚の儀式は夕暮れ時に行われ、夜には、夫婦として結ばれる、という習慣があったんだそうです。だから結婚って言うんだって。今googleで、「結婚 語源」で調べたらそう書いてありました。ところで、「結」という文字は、日本語では「むすぶ」という言葉で訓読されます。

 で、どうもネットとかいろいろな本を読んでみると、「むすぶ」という言葉は、「苔生(む)す」という言葉があるように、語源的には「生まれる」という意味があったみたいです。日本神話には「高御産巣神(たかみむすびのかみ)」とか「神産巣日神(かみむすびのかみ」という神が、「創造」を神格化した神として最初から出てきますしね。これについてもう少し書くと、うろ覚えで恐縮ですが、むすびは古くは産霊(むすひ)と書き、古代の日本人は(「日本」という言葉が出てくるのは7世紀後半らしいので、その前の人は倭人とかになるのかもしれませんが)天地自体とそこに生まれるすべてのものを生み出し育てていく、そして完成させていく、なんか霊的な力みたいなものがこの世にはあると感じていたらしくて、それを産霊と呼んでいたみたいですね。

 ものというか神というかよくわからないものですが、江戸時代に古事記を研究したことで知られる本居宣長という人は「産霊とは、すべて物を生成すことの霊異なる神霊(みたま)を申すなり」とか書いていて、わたしなんかはなんかオカルティックで楽しいなあなどと考えてしまいます。あと、娘はむす・め、息子はむす・こで、生まれた子とか生まれた女とかそういう意味だったらしいですね。

 さて、「結」という字がもともと「吉」を「糸」で結びつける、という意味なら、語源としての、つまり「生まれる、生まれた」などの「むすぶ」とはだいぶ違いますね。これは無論、「結ぶ」の二義的な意味―ーひもなどの両端を絡ませて繋ぐーーが日常的に使われていたために、そっちの意味に呼応する漢字を、中国語から持ってきたのでしょうね。そうすると、漢字によって、日本語の中のもともとの意味が隠れてしまう、という事も言えます
。もちろん逆に、漢字の部分をかっこにいれると、日本語のもともとの意味の関係が見えてくる、ということもいえるし、この漢字とひらがなの混在には、中国語の奥底に浮かび上がる古代中国の世界観や生活感と、日本語の奥底からにじみ出る古代日本の世界観や生活感が、じつは隠れて混在していることでもある、とも言えます。ただ、漢字によって、日本語の語源は見えづらくなっている、とは言えるでしょう。

 むすぶ。ではなぜ、生まれる、という意味の言葉が、何か紐状のものを結ぶ、という意味に転じたのか。万葉集には、むすぶ、という言葉が出てくる歌がいくつかあります。

 「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」

意味:磐代の浜の松の枝を結び、輪を作って帰ってくるみたいに運よく無事だったら、また帰ってきて見るよ。
  
「淡路の 野島が崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す」

意味:淡路の野島の崎に吹く冷たい浜風に、妻が結んでくれた紐がひるがえっているよ。

 「ふたりして 結びし紐を ひとりして (あ)れは解きみじ 直(ただ)に逢ふまでは」
         
意味:二人で結び合った着物の紐を独りで決して解いたりはするまい、また会うまでは。

 はい。どうも古代の日本においては、旅に出る時に、松の枝を結ぶことで旅人の安全を祈ったり、男女が長く逢えない時に、互いに相手の紐を結んで無事を祈ったり、男女が旅などで別れ別れになる時、衣類の紐をお互いに結び合わせ、再会した時に解き交わしたりしていたみたいですね。紐をむすぶことでお互いの魂をその中に籠めていたらしい。

 昔の人の言葉なので、意味や語源は正直あまり断言はできないけど、民俗学者折口信夫の説によれば、水を両手のひらで掬って(すくって)飲む動作を『水を掬ぶ(むすぶ)』と言い、水の中に霊魂を入れてそれを人間の体の中に入れることで、体と霊魂を結合させるという意味があったそうです。その動作をした者は非常な威力を発揮すると。この水の「掬び」と何かを結んだり結合する意の「結び」には、深いつながりがあり、そもそもある内容のあるものを外部に逸脱しないようにした外的な形を「むすび」という言葉で表現していた、という事のようです。折口的には。つまり「霊的な力を籠めて外に出さないようにする形」でもあると。これは万葉集のむすびがでてくる歌には一応矛盾はしてない説だなと思います。ちなみにむすひ、いうのは、「むす(生まれるという意味)」+「ひ(霊という意味)」でできていて、ひもというのは「ひ(霊という意味)」+「も(裳と書き、裳裾の裳)という説があったり、「秘める(霊能の意味)」+「緒」でひめをというのがなまってひもと言ったという説があったりするみたいですね。むすびにもひもにも霊という意味合いが宿っているわけです。

 で、これはネットに載ってた記事なので信ぴょう性は不明だけど、おにぎりのことを「おむすび」というのも、古代の日本人は米に霊的で生命的な力が宿ると信じていたので、それを中に籠めている的な意味がある、とか、むすびの神が山にいると信じられていたから三角形のおにぎりの事をおむすびというとか、いくつか説があるみたいです(※ちなみに日本おにぎり協会のホームページには、関東から東海道にかけてはおにぎりのことをおむすびと呼ぶ、と書いてありました。ぜ、全国的な言葉じゃなかったのか・・)。

 日本語の語源を調べてみると、古代の人が世界ー―自然をどういう風に見て、肌で感じていたのかある程度わかり、そういう知識というか、むしろ感覚的なフィルターを通して古事記万葉集などを読むと、結構変な世界が広がっているんだな、と思います。

 古代の人にとっては、むすぶ、という言葉は、生まれること、何か紐状のものをむすぶこと、霊魂を込めること、つなぐことなどの意味合いがあったらしいです。あるいは、何かを結ぶこと、結び目に霊的な力が生まれたり籠められたりする、という信仰を持っていたらしい。何かを結ぶことで形ができて、そこに霊的なものが籠められる、とか、そういう感じなのでしょうか。結婚も、人と人とが縁を結び、夫婦という新しいものが生まれる、そこにお互いの魂、というか願いが籠められる、というような意味では、「むすぶ」の語源的な意味も派生的な意味も当てはまっている、と、こじつけ感はあるかもしれないけど、言えるかもしれません。

 というわけで、話を戻すと、やっぱり結婚はめでたいですね。さて、めでたい、という言葉はもともとはどういう由来なのだろう、これはどうも、愛ず(めず)という言葉からきているみたいですね。そして、めずらしい、という言葉は、愛ず、の形容詞形で、好ましくて、もっと見ていたい、という意味が転じて、まれなもの、稀有なもの、という意味になったらしい。さて、その愛ず、ですが、もともとは誉める、という意味で、その「愛で」に程度をあらわす「いたし」がついて「めでいたし」になり、それが縮まって「めでたい」になった、という事らしい。目出度い、というのは後世の当て字で、「大変すばらしい」という意味に今はなっている、という事みたいです。なるほど。では「素晴らしい」という言葉はもともとはどういう意味だったのか。実はこれはもともとは、いわば「素晴らしくない」意味だったみたいです。つまり、ちぢむ、とか小さくなる、という意味の、「すぼむ」とか「みすぼらしい」という意味から「あきれるほど~」とか「すごい~」というような意味になり、そこからネガティブな印象が抜けて程度を表す言葉になり、それで「素晴らしい」というのはむしろポジティブな意味で程度がすごい、という事になったのだそうです。ちなみに素晴、というのは後世の当て字です。言葉の意味というのは、時代とか使われ方によって変わっていくものですね。

 そういえば、さっきの本居宣長が言っていることですが、「あわれ」という言葉は「悲しい」というようなニュアンスがありますが、もともとはただ単に「すごい」とか「心に残る」という意味だったということだそうですね。「あは」という感動語に接尾語の「れ」がついて、心の底から湧き出る感情を表したのだそうです。

ではなぜ「悲しい」となったかと言うと、本居宣長によれば、「人生の経験というのはどちらかといえば悲しい事の方が心に残ってしまうので、あわれ、というと次第に、「かなしい」を意味する言葉になってしまった」ということのようです。なるほど、確かに悲しい事や辛い事の方が心に深く刻まれるというのはなんだかわからないでもないですね。とはいえ、嬉しいことや楽しいことあるいはすばらしいことは、むしろ「あっぱれ」という言葉が生まれてそっちで使われた、というのもあるみたいです。あわれがなまってあっぱれ!になったと。確かに、こちらの方が跳躍感があり、語感が明るいですね。あっぱれ。あっぱれ。あっぱれ!あっぱれ!!・・・ふう、やっぱり「ぱ行」の言葉がつくと、テンションがパない、ていうか、頭パー感があるというか、いやなんかもうパリピ感があるというか。しかも、あぱれ!じゃなくて、あっぱれ!っていう、小さい「っ」がある事で跳躍感があるので、そこもポイント高いって感じがします。やっぱさ。ナパよりナッパだし。スパよりスッパだし。ペパよりペッパーじゃね?アパよりアッパーの方がいいよね。語感だけど。クパじゃなくてクッパ。チュパチャプスじゃなくてチュッパチャップス。やっぱりつっぱりかっぱらい。パリっ子たちがクッパたちと一緒にパーティー券を売っぱらう、うん、「ぱりっ」て言葉はいいよね。まあなんかこう、ぱりっとしていて。うわっぱりをきたつっぱりたちのぱしりにさせられ、パリのパン屋を、こっぱみじんにぱりぱりにする。さっぱり妖精たちといっしょに、すっぱい気持ちのスパイスたちを、ぱらぱらふりまく、アパラチア山脈で吊り橋をわたっていくパラノイアたちみたいに、あっぱれな気分で。ことあるごとに、「このあっぱれ野郎!」とか言いながら。

 いや、失礼、パ行の言葉のせいで、よくわからないテンションになってしまいましたが、やはりパ行の言葉には強い力があるんじゃないでしょうか。「あいうえお」とか「かきくけこ」とかいうより「ぱぴぷぺぽ!」とか大声で叫んだ方が破壊力強くないでしょうか。みなさんの中には、昔、東日本大震災の時に、TVのCMで流れた「ぽぽぽぽーん!」という言葉が、人々の脳裏に無駄に焼き付いて、無駄に流行した、という事件が起きたことを覚えておられる方もいると思います。もっと正確に言えば、あれは「ぽぅおぽぽぽぅおーん!!」でした。みなさんもご存知かと思います、ポの字の力を。ポンキッキポリンキーモノポリー、ポッキー、デコポン味ぽんポンデリングポン・ジュノポンティアックにメルロ・ポンティーポメラニアンおもひでぽろぽろ、ぽんぽんが痛い、こぎつねコンとこだぬきポンという絵本が昔家にありましたーーそう、ポ、という字は人をして恐ろしいハイテンションにさせないではおきません。すっぽんぽんになってヒロポンを打ちながらトランポリンをする人みたいに。昔の漫画とか読んでたら「あいつはおまえにほの字だぜ!」って言葉がでてきたことがありますが、「あいつはおまえにポの字だぜ!」の方がずっとテンションが高くて良い気がします。なんの意味だかよくわからないけど。

 そうそう、ぽ関係で、わたしの特に好きな言葉で、時々大声で言いたくなる言葉があります。それは古代ギリシア語で、古代ギリシャの戯曲に出てくるのですが、岩波文庫からでている「タウリケーのイーピゲネイアー」という、エウリピデスの作品の中で、悲嘆にくれたヒロインの王女様が「ポポイ!」という台詞を言うのを目にした時、ああ、わたしはなんてテンションがあがったことでしょう!なんてかわいい言葉かと思った事を覚えています。なんかちちんぷいぷい的な、藤子不二雄の漫画でチンプイっているけどその亜種みたいな響きで、口ずさむだけで、語源通りの愛でたい、愛づらしい気分になります。

 ーしかしながらこの「ポポイ」という言葉は、格調高いギリシャ悲劇の古典の中で、実に悲嘆にくれた時の感嘆詞として使われていたのでした。つまり、ああ!かなしい!あわれなり!!的な意味で使われており、英語ではAlas!というのと同じような意味だと思われます。原作の格調の高さ、台無し。そういうわけでわたしは、この古代ギリシャの言葉について、何かチンプイの亜種みたいなかわいい生き物が、悲しそうな表情をさせて、「ポポイ!」と大声で叫んでいる姿を想像します・・・うーん、やっぱかわいいですね。うん、なんというかこれは、本人的にはめっちゃ悲しくて必死なのに、全体的にかわいくてマヌケでちょっぴりオチャメな容姿をしているせいで、まわりの人々からあんまりまともに相手にされなくて、思わず、夜に近所の誰もいない公園で、「ポポイ!」と言いながら、藤子不二雄の漫画に出てくるかわいい変なキャラがだいたいしているようなそのかわいい手、あのジャンケンでは必ずグー以外を出すことができないあの丸っこい手、あの手ですべり台を殴っている姿が目に浮かびます。

 まあ、わたしにとって、ポポイはだいたいそんな感じなのです。ーーとはいえ、ここまで見てきたように、単語の意味は時の流れによって、そしてどう使われてきたかによって変わっていくものなのでしょうね。よって人々が、ポポイ!をかわいい意味合いで使いたい、そんなわたしの意を汲んでくれて、みんなで日常的に何かかわいい意味合いでつかってくれれば、この言葉はあの古代ギリシャの暗い呪縛から解き放たれていくでしょう。たとえば「今日きみが着ているワンピースはとってもきれいでかわいいね、僕ときたら本当にポポイになりそうだよ!」とか、「もー!あいつったら普段は不愛想でおめでたくてみすぼらしくて語源の方のすばらしい奴のくせに、二人っきりでいる時だけは超ポポイなの!振り回されっぱなし!やってられないわよ!」とか言われた日には、うん、本当だよね、なんかよくわかんないけどそんなポポイだったら僕もやってられないよ、とか、言いたくなってしまうことでしょう。そう、そういう風に、ポポイの意味もいろんな状況で使われていくことで、意味合いも変わっていくのだと思います。実際、その言葉の最初の意味が、最後の意味まで規定するなんて必要はないのですから。

 さて、ポポイのせいで、よくわからないテンションになったけど、言葉は、使われ方によって意味合いが変わっていくので、裏を返すと、ある言葉は、その言葉がある特定の使われ方で響いていた時代の空気感や世界観や、ひとびとの暮らしなどが、そこに宿っているのだと言えると思います。「結婚」という言葉は、いったい、何百億回、人の口からのぼったことでしょう、仮に、一人の人間の人生の中で、結婚という言葉が、一万回ほど使われたとします。そこには一万回、結婚、という言葉が使われる、それぞれ微妙に異なった文脈なり状態なりがあったと言えます。勿論その中には、血痕、という言葉をキーボードで打とうとして結婚になったり、けっこうです、と言おうとして、けっこんです、と言い間違えたりしたこともあったかもしれませんが。

 様々な空間と時間を超えて、様々な人々の世界線の中で結婚という言葉は今でも響き続けている事でしょう。それだから、血痕、じゃなかった結婚という単語を見ただけで、わたしたちはそれがどういう意味を表しているかをすぐ理解します。そういう事を考えてると世の中ってすごいなあと思います。
しみじみしてきます。でもこの原稿書いてたらもう夜遅くなってきたし明日仕事だからもう眠りたいです。なんだろう結婚って。わけがわからないよ。なんて世界は広いんだろう、なんて世界はよくわからないんだろう、周りで人々が次々に結婚したりしていくんだけど、こんなテンションが不安定に上下するわたしにも、いつか旅に出る時に紐を結んでくれる人はあらわれるのでしょうか。きみたち人間はいつもそうだね、そんなことわからないよ。と、ポポイの奴から言われそうですがー―でも、意味不明だからこそ、意味が生まれる余地があり、使い道がよくわからないものがあっても、使われていくうちに、どういうものか、人々に理解されていくこともあります。未来のことはわからない、というのは、未来がある、という意味ではなくて何でしょうか。

 最後に、個人の歴史をとってみても、結婚、という単語は意味合いを変えていくこともあると思います。例えば、不幸な結婚の末にあなたが離婚したら、結婚という言葉はあなた的には不幸を意味する言葉になりうるし、幸福な結婚生活であれば、結婚という単語には、幸福なほの明かりが後光のように灯されることでしょう。またあなたが特に結婚とかしてない人であっても、周りにいる結婚している人たちが、不幸だったり幸福だったりすることによって、意味がかわってきたりもするでしょう、未来の事は誰にもわかりません、それが未来というものだから。なんだろう結婚って。わけがわからないよ。それが結婚というものだから――でも、そう、願わくば、人々の結婚が、そしてこの結婚が、めでたく、すばらしく、そして語源的な意味でのめずらしい結婚の意味合いを、結んで護っていきますように。

 以上を持って、今回の話の結びとしましょう。

ではポポイ!

 

 

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(執筆:2018年3月)