note転載41 一粒の砂

わたしは無でできている、その無は世界がわたしの中で裏返しになることで成立している。わたしは裏返しだった。つまりかつてわたしがわたしだと感じていたものの反対側にわたしはいるのだった。

 昔は自分を畸形のように考えていた、でも実際には畸形でさえなかった。形のないものを畸形的だと誰かが言えるだろう、実際には無だった、わたしがわたしになる前に生まれたような無だった。わたしではないもののすべてがわたしで、わたしの顔をし、わたしの思考をし、誰かのことを考えているこのいきものは、わたしというよりはわたし以外のすべてである気がした、わたし以外のすべての一部だった。

 よく考えたものだ、わたしは一体誰なのだろう、スモークガラスの中にいるような視界にとじこめられて、どこか根本的なところで居心地の悪そうな雰囲気を、何か不自然な感じを放ちながら、わたしは他人だった、自分に対しても、他人に対しても。

 この世界には、無と呼ぶしかないような、何かよくわからない機械のようなものがある、機械のように動的なシステムがあって、それが目にも見えず、耳にも聴こえず、鼻で嗅ぐことも、触れることも、味わうこともできないような何かがあって、わたしはそれを機械という比喩で説明しているのだろう。

 わたしの中にある、どこかとらえどころのないような感じは、わたしが無の中に生きていることに起因する。わたしがわたし自身でわたしをつかもうとしたら、わたしはきっと消えてしまう気がする、そこには穴しか空いていないから、わたしはその穴の中に吸い込まれて、もうもどってはこれない。

 わたしは現実を被っている、そう自分を感じる。わたしという意識は身体から生まれた効果だろうか、わたしと思うゆえにわたしは現れる、わたしをこのわたしと考えなければわたしはいない、ということは、わたしがわたしじしんを思うがゆえにわたしはいない、ただ活動だけが存在するように思える。

 そして活動の事をわたしという必要もない、細胞組織の集合体、微生物の群生、遺伝情報を時間的に運航していく連鎖反応の一部分、社会を構成する個人という器機、地球という巨大なシステムが生み出した地表に寄生している微生物。あるいは脳のごく一部の器官に構成された、量子的なコンピューターの、計算活動こそが自己なのだ、という説もきいた。わたし、というのは「このわたし」、という言葉によってなざされた時にだけ現れるようなひとつの質感、ひとつのクオリアなのだ、という説も読んだ。しかしそれらはわたしだろうか?

 それらはみんな、違う定義上のわたし。だが、最初にわたしという言葉がさししめしているもの、このわたしについて思考するもの、そもそもの思考そのものを、内面的に顧みると、そこには、思考そのものが生まれてくるような時空間がある、言葉が言葉になる前の場所がある。感覚器官が何かを感じるよりも前の場所があるように感じられる。場所というより穴だろうか。 

 結局のところそこはわたしの外部ではないか、それはわたしの中で、というかわたし、という言葉が便宜上さししめしているものの中で生まれてくる自然現象ではないか。それは火山の噴火や雨や雪と、植物や鉱物の成長と、同じような現象なのではないか、言葉が後天的なもの、社会的なもの、社会のコミュニケーションのシステムの中で獲得していく様々なパターンの運用方法だとして、それに運ばれるもの、このわたしという他人の中でそれを運ぶものは、わたしがそれ自体であるせいで十分に知覚できないような、純粋な自然現象なのではないか。

 そして、この細胞や微生物の生態系としてのこのわたしについて今言えることは、他の人たちにとっても同じではないか、と思う。このわたしの身体をつくっている細胞のひとつから見ればこのわたしは、その細胞の感受できる感受性の限界、感受性全体の地平線の向こう側であり、細胞自身の背景の向こう側であり、さきほどの繰り返しにはなるが、地球から見れば地球という巨大な生態系に住み着いている微生物であり、もし地球と同じ大きさの人間が存在するのなら、その人間にとってはわたしは、かなり高性能の顕微鏡のようなものを使わないと、その存在すらも確認できないような、人間にとってのミトコンドリアのようなものではないか。

 わたしが人間を微生物というのは、宇宙や地球という物理的なものさしで測れば、とても極微的な存在でしかないからだ。そういう人間の中にミトコンドリアや腸内細菌やライノウイルスが棲んでいる。つまり微生物の中に微生物がいる。この物理的な秩序の中で、たまたま一定の物質的なスケールにおいて、たまたまある程度なだけ強固な結束力を持った、集合組織のことを、生物といい、人間といい、その一つが自分のことをわたしと呼んでいるだけだろうか、そうとも言えるかもしれない。

 だがそのようにして、このわたしを突き放し、このわたしを取り巻いている環境世界全体と、溶け合い、消滅させている、そういうわたしのこの活動は、どのような名前をつけるのがふさわしいのだろう。

 それは思考という、人類の普遍的な営みの中での、その普遍性の証人であるようなものの一例ということなのだろうか、それは物質というものの織り成す営み全体の中で微視的に切り出された、一定の特徴を持った連続性の一つなのだろうか、その連続性の一つが、身体と科学と思考の地平線を広げて、自分自身の感受性を、宇宙全体にまで広げることで、宇宙と自分を交換するということだろうか。交換というのはつまり、わたしが宇宙を感じている時、わたしはわたしを考えないのだから。

 この感受性が体験していく時空間。それは一つの四次元的な世界線だ。もしわたしを素粒子のように考えるなら。一粒の砂に世界を見て、一輪の野の花に天を見る、という昔の神秘家のことばがある、だが、わたしはひとつぶのわたしであることによって、永遠にわたしの感じられる限りの全世界を見る。わたしの網膜にとどく光が、光の粒子が伝えてくれる時空間の情報を、様々な間接的な装置が再構成し、説明してくれる空間を見る。

 わたしは一輪の野の花、無限をとらえるてのひら、永遠を夢見る時の断片だ。すべての物理学的な現象が粒であり波であり振動する場所の関係と干渉によって構成されていて、その関係性の切れ端であるような、永遠に完結することのない、塵のような時の断片、それも自分自身のことを自覚するような時の断片でできているような、人間たち。生物たち。物質たち。素粒子たち。分解したら素粒子になるものたちが、分解したら素粒子になってしまう電車に乗る、繁華街を歩く、友人と話す。彼らのすべてがそうなのだ、すべての人が、世界を見ている砂粒で、世界を己自身の世界線から観測し、それまでの観測結果を不断にフィードバックしながら再構成して、世界の、宇宙の姿をモデリングしている。

 そうしてわたしは、人という種族の思考活動の在り方を、外側から見ているような気分で内側から見ている。まるで幽体離脱でもするかのように。なんて奇妙ないきものだろう、人間というのは!あなたはあなたなりに、わたしはわたしなりに、宇宙のヴィジョンを、世界の姿を、五感のうちで、意識のうちで、記憶のうちで、シミュレートしている。決して交わることのない別々の世界線から、この世界を観測し、その結果をフィードバックしあっている、人という、いわばセンサー付の奇妙な生体コンピューターが雲のように集まって、言語という名の、集合記憶という名の、文化という名の、ネットワーク上の仮想的な現実の中で、情報を交換しあっている。そしてそれがフィジカルで具体的な空間に影響を及ぼしている。だがこのフィジカルなものはどこまで現実だろうか?わたしが純粋に感じ取ることのできるものが現実の謂いだろうか、だがそれは感覚や言語の恣意性から自由とは言えない。言葉を知らなければ、別の知覚組織を持っていれば、今見ているように現実を見ないし考えもしないのだから。

 これは現実と言えるだろうか、もちろん現実と言うのは自由だ。だがこれは、現実とたやすく名付けてしまうのには、あまりにも謎だ。名付けようとする言葉が迷い込むような事物のことをそう呼ぶのなら、確かにそれは、謎というのがふさわしい。

 この謎は答えのない問いかけということになるだろう、答えがない問いかけをするのなら、黙っているのと同じだろうか、しかしながら、答えがなくても何かを話しているほうが、何も言わずに黙っているよりかは、活動している分だけ生きているという感じがする。この場合生きている方が死んでいるより落ち着くし安心する。

 ・・・なるほど、では安心すれば人は思考を中断するというわけだ。なんて奇妙ないきものだろう、人というのは。わたしたちは必要以上に知る必要を知らない。しかもそのことを自覚せずとも知っている。言い換えればそういう風にして、人は自分の知ることに制限をかけている。

 けれどもわたしには、そういうことさえ奇妙に思えて仕方ない、それでいて、奇妙でないことがなんなのかさえ、わかりもしない。知れば知るほど、学んでいけば学んでいくほど、わたしにはわけがわからなくなる。

(2018年)

 

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