感情についてのノート3

アリストテレスの演劇論から見た鬼滅の刃について

この記事は前回の続きというか補足です。

pagansynonym.hatenablog.com

 

前回の能の物語についてもう一度振り返ってみます。

幽霊を浄化する、記憶を昇華し消化し消火する。それは記憶の効果的な解放と再現によるものです。それは後から解釈され、物語られます。再現されたものは、現在から新しい視点からの光を当てられる。そこには、その感情を生み出した関係性についての見晴らしが得られます。

 

実はこれととてもよく似た話をしている人がいます。世阿弥は東洋最古の演劇論として風姿花伝を書いていますが、西洋最古の演劇論を書いているアリストテレスです。

アリストテレスは演劇のジャンルとしての悲劇を定義しました。それは

 

一定の大きさを備え完結した高貴な行為を再現したもので、歌曲や音楽、韻を踏んだ言葉などを使用し、叙述ではなく行為によって行われる。観客は再現される出来事の因果関係を理解し、あわれみとおそれを感じ、カタルシスを覚える。

 

というものです。

 

 

アリストテレスの悲劇論はこちらです。演劇や文学や映画について考えたい人には参考になるものが多い古典です。 

 

 少し前に古典新訳文庫からも出ていました。

 

詩学 (光文社古典新訳文庫)

詩学 (光文社古典新訳文庫)

 

 
さて、ギリシアの悲劇において、観客は音楽やリズムによって彩られた行為によって、リアルに表現された因果関係を理解します。理解した時に、憐れみや恐れなどの強い感情が呼び出される。発露した感情は浄化されます。そこには感情を出した喜びがあります。観客は演劇という枠の外側から安全にそれを踏まえて楽しむのです。

 

ここでいう理解とは何でしょうか。根本的には人間のあり方、世の中のあり方を理解すると言えるように思います。理解というよりは解釈なのだけれども、それは体験を通した解釈なので、普通の解釈よりも強くせまるものになる。そしてこれは、人間や世の中のあり方を、演劇を通して学ぶことでもあります。

 

ギリシャ時代の演劇は、祭りの日に上演されました。演劇は専用に作られた劇場で、演じる俳優も、シナリオに合わせて集団で決まった台詞を行ったり歌ったりするコロスという役割も、ポリスの市民が演じました。観客も市民だったわけですが、それは物語と感情の共有を通じて、市民が結束し、また教育させるもの、教育的であり社会的な効果を持っていたのでしょう。(注1)

 

そこで思い出すことがあります。

 

 去年今年(2021年1月現在)鬼滅の刃が社会現象になりました。この作品を、アリストテレスの悲劇論を踏まえた上で考えると、分かりやすく説明できる気がします。

 

 この作品における鬼は能における幽霊のような存在です。鬼が倒されて負ける時に、鬼になった経緯が語られ、読者はそれを理解します。理解を通じて、敗者の境遇に対するあわれみとおそれ、そしてカタルシスを覚えます。そしてカタルシスを通じて倫理的なことを学びます。

 

倫理的な事とはなんでしょうか。この作品においては、具体的には悪人ではなく罪を罰する事、悪を犯す人間の内面のプロセスや環境を考えること、愛についての絶望や行き違いが人を悪に走らせること、ふつうの人間がささいな出来事がきっかけになって道を踏み外してしまうこと、人生には避けられない不幸がどうしてもあること、そしてもちろん、努力や友情、家族愛、弱者や不幸に対する思いやり、といったような普遍的な徳性の価値です(とはいえ特に物語終盤については、むしろあまり同情の余地を感じさせないような鬼が出てきますが)。

 

それらは実際の社会生活に役立つような認知ばかりです(長男は次男が耐えられないことも耐えられる、のかどうかは謎ですが)。また、同じ作品を鑑賞して楽しむ事で、鑑賞する人間同士は一体感を持つことができ、作品を通してコミュニケーションをとれます。

 

・・・逆に鬼滅の刃を見ていない人を非難する、キメハラというキメラみたいな言葉さえも生まれてしまったようですが、この作品が社会現象になるまで物凄くヒットしたのは偶然ではないと思います(注2)。貧富も学歴も右翼左翼も性別も年齢も関係なく受け入れられやすいところがあるからです。しかしそのような作品はあまりないのではないでしょうか。

 

映画やテレビドラマ、アニメ、小説、漫画。社会を統合する力があり、感情の力学を通して人間のあり方について知らせる力を持つもの。今後もそういう作品を人々は求め続けていくことでしょう。

 


(注1)アリストテレスは、しかしながら、現代の基準で見ると非人道的なところが色々あります。たとえば奴隷を生きた道具とみなしたり、明らかに男尊女卑的な価値観を持っていたりします。ギリシャの民主制は、民主主義のひな型として賞賛されがちですが、その民主主義を構成していたのは、ある程度のお金を持っている成人男性の市民に限られていました。

 

(注2)私自身はこの作品は都合が良い展開が多いなと思ったりするのですが、色んな意味で都合が良いからこそヒットしたのかもしれません。鬼滅の刃の欠点を色々批判する人もわりといると思います。批判の中にはうなづけるものも色々あるのですが、この文章では鬼滅の刃の作品としての完成度は脇において考えています。

感情についてのノート2

 感情についてのノート2

感情についてまたツイッターに色々書いたので纏めました。

なりゆきでブックガイドみたいな記事になりましたとさ。

 

 

 

1 過去からの声としての感情

少し前に昔の友人に連絡することがあったのですが、その際、その人に対して自分の中でわだかまっている事を捉えるために、起きた事やその時に思った事、今感じていること、どうしたいか、などを紙に全部書き出して整理する、という事をしました。その内にその人について、以前と全然違う感情が湧いてきたりすることがあります。

 

よく時間が解決する、というけど、そしてそれは当てはまることが多いけど、そうならない感情もありますね。許すための優しさが生まれる場合も、抑圧してきた怒りが沸くような場合も、時間ではなくて、別の側面から自分や相手や状況を見るためのきっかけが必要だったりします。勿論きっかけを活かすことも。

 

そして上手いきっかけを手繰り寄せるためには時間がかかる事も多い、なので表面上は時間が解決する、という風になる事が多いように思います。

 

抱いた感情の詳細や、具体的な状況を思い出す事で、そこから新しく何かに気付くと、その気付いた場所から、別の文脈から状況をもう一度把握し直してさらに色々発見できる場合があります。でもそれは、感情の変化なしには気づかなかったことです。また感情は一度外に出さないと変化しない事も多い。

 

感情と上手く関わる事で、理性的な思考に大きく折り目を付けたり、理性の幅を広げる事ができます。極端な言い換えになるけれども、感情の方が理性の気づかない事を知っている場合があり、感情が新しい見方や知識の鍵やきっかけになりことがあります。

 

特に感情は自分の心の中にたちあらわれる自分と周囲の環境との関係性を、自分に教えてくれるとも言えます。また強い感情が似たような感情を抱いた時の過去の記憶と関わっているなら、過去における自分と周囲の関係と現在の状態との関係も教えてくれます。であれば強い感情とは過去からの声と言い換えもできますね。

 

 

 (この本は、感情というものがヨーロッパの哲学の歴史の中でどのように扱われてきたかが書かれています。感情は自分と周囲の環境との関係性を、自分に教えてくれる、というのはこの本に書いてあります。そういう点では面白いのですが、科学からの感情の研究に対してかなり否定的な見方をしていたり、現代文化についてかなり批判的だったりと癖が強い本だったので勧められるかというと個人的には微妙です。とはいえアマゾンの書評などを読んで興味が湧いたら読んでみるのもよいかもしれません) 

 

2 感情と輪廻転生の観念

ある瞬間が、特に強く悩んだり悲しんだりしている時に、同じ人生の中にある別のある瞬間の生まれ変わりのように感じられる事があります。わたしはもう一度あの時と同じ状況にいる、という感覚。わたしの周りで、何かの出来事はそれ自体、いつもいわば輪廻転生している。もしくは、わたし自身が同じ状況に繰り返し輪廻転生している。

 

というか、だからこそ輪廻転生という概念が生まれるのかもしれない。つまり、人が時間とかかわるあり方そのものが輪廻転生的だということです(実際にいわゆる生まれ変わりがあるのかは脇に置きます)。

 

スピリチュアル系の話で、転生を繰り返して課題をこなす事で魂が成長する、みたいな話に昔から人気があるのは、私たち人間が、人や世界との関わりの中で似たような感情の体験を繰り返していくうちに、自分を知り、より良く生きるための課題をみつけ、成長しようとする傾向性をもつからかもしれません。霊性進化論(輪廻を繰り返していくうちに魂が進化するという説)は人のそういう習性に相性が良い裏付け説明をしてくれます。

 

もっとも、霊性進化論はカルト宗教や自己啓発セミナーでアレンジされてよく使われ、悪用されやすい説明なので、それを信じる事はお勧めできないですが。。

 

霊性進化論についてはこの本がよくまとまっていて分かりやすかったです。オウム真理教幸福の科学も、輪廻転生と進化論を掛け合わせたオカルト思想である、神智学の影響があるんですね)

 

3 能と初心と幽霊の観念

とはいえ私個人としては自身は成長という言葉はなんとなくあまり好きではないのであまり使わないですね。アップデートとかの方がいい。成熟も好きじゃない。成長という言葉はたぶん直線的な印象が自分にはあり、成熟には、動きが少なくなるイメージがあるからだと思います。生成とか変化とかの方が好きですね。あるいは初心とか初心者でいたい気持ちがあります。

 

無論誰かから援助されたいという意味ではなく、体験していく様々な出来事に対して、白紙の状態でいたいのでしょう。

 

昔読んだ本のことなのでうろ覚えなのですが、室町時代の、能の大成者である世阿弥は、3つの初心がある、と書いています。一つは初心忘れるべからず、という未熟な時の初心。若いころから老年に至るまで、時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」。そして老人になる事についての初心。

 

それはもし私が老人になっても、それは老人、という自分の状況に対する初心者になる、という事でもあるという話だったと思います。やってくる物事に新しさを見つければ私はそれに対して初心者になれる。

 

昔読んだ本というのはこの本です。 

 
ちなみに同じ作者のこの本もおすすめです。

能の物語 (講談社文芸文庫)

能の物語 (講談社文芸文庫)

 

この能の物語、という本は 能の様々な演目の筋書きを短編小説のような形でまとめた本です。能の物語の筋がどういう話なのかが良くわかります。そして読んでみるとわかりますが能の筋書きは幽霊を鎮める話が多いです。幽霊の抑圧された恨みや悲しみを話させたり舞わせたりして浄化する、という話が多い。

 

幽霊は生前に、過去に囚われているから幽霊になります。そこで人が囚われる過去は悲しみや怨みや怒りの感情です。

 

ところでふつう人が悲しみや怒りや怨みを抱く時、それは身体の反応と一緒になっています。感情や身体に結びついた記憶。なので、体を持たない幽霊が怨みや怒りを抱いている、というのは、何か矛盾的なところがある気がします。

 

でも、記憶は、特に強い感情と結びついた記憶(情動記憶)は、何か幽霊めいたところがあるのではないでしょうか。

 

最初の方で私は、情動記憶と輪廻転生の観念を結び付けて考えてみました。
しかし、情動記憶を幽霊と結びつけて考えてみることもできるかもしれません。

 

人は感情と結びついた記憶の幽霊と共にいつも生きていると考えてみるのはどうでしょうか。

 

記憶は幽霊のように、その人の生活のさまざまな場所にあらわれます。幽霊は、その幽霊が生きていた時の、過去からの声を語ります。

 

耳をそばだてて幽霊の話を聴くこと、残った念を放すこと、残念を話す事、作品にすること、恨みを晴らす事、はカタルシスを、浄化を与えます。

 

情念と結びついた記憶は、時間も場所もその対象の生死も問いません。
それはどこにでも現れます。まさにそこから、つまり情念と結びついた記憶のそういう性質から、幽霊という概念が生まれたのかもしれません。

 

人は自分の記憶の幽霊と出会う事はできます。つまり、強い感情を覚えた場所なり状況なりにもう一度居合わせればいい。他人の幽霊と出会う事は可能でしょうか。その他人と私の間で何か感情的な結びつきがあれば、他人の残したものは私にとって他人の幽霊のような役割を果たします。

 

いや、その他人が、私やわたしが過去に深く関わったものと何らかの意味で似ていれば、わたしはそこに幽霊をみるかもしれません。あの人はもう会えない私の祖父母や両親や息子や娘に似ている、友人や恋人に似ている、といいう風に。

このような意味で幽霊という言葉を使うなら、私は、というか人はいつでも幽霊に取り憑かれているのかもしれません。

 

恐山のイタコが実際には幽霊を呼び出してはおらず、ただ演技をしているだけ、という話を昔読んだことがあります。 

 (この本はイタコだけではなく、修験道、ユタ、民間のシャーマン、日蓮宗の祈祷師、狐憑きなど、日本おけるシャーマン的な伝統について幅広くフィールドワークした労作です)

 

しかしながら、演技というよりもそうだと信じて、口寄せを聴いている人はイタコを媒体にして、心の中でリアルな幽霊と出会っていることになります。もっと卑近な話をすれば、オレオレ詐欺に騙される老人は、息子の幽霊(この場合は生霊か)と出会っていることになるかもしれません。

 

一番最初に、私は昔の友人に連絡することについて書きました。実際に連絡を取ったのですが、そしてわだかまりは私の中でもうほどけて、いわば成仏したのですが、相手にしてみれば、連絡をとってきたこの私が過去から来た幽霊のように思えたかもしれませんね。

 

 その友人についての私の記憶は、もう何年も前のまま止まっていたし、

その友人にとっての私の記憶も、同じように何年も前から止まっていたのですから。

 

 

 

感情についてのノート1

感情についてのノート1

ツイッター @sensationsaki に書いた記事の転載)

人は自分の思考の癖を持っています。嗜好の癖も、何かに対する志向のくせも、試行や施行する時の癖も、あと自覚はしてなくても食生活や口内の環境によって歯垢の癖も持ってしまいますね。

こういう思考やこういう感情を持ちやすい、という身体の状態や気分の時があります。なので考えるより体を動かした方が良い場合と、周りの事を全部シャットアウトして考える方が良い場合がある気がしています。

私は自分の思考の癖とか感情の癖に苦しめられる事が多く、それで辛い思いをする事が多かったのですが、同じような思考を繰り返している時に、それにできるだけ早く気づくことができるかっていうのはとても大事だと思います。

感情の癖について言うと、最近読んだこの本が面白かったです。

 

人間の記憶には、言葉で説明できるような出来事についての記憶(脳の海馬などが担当)と、ある出来事が起きた時に抱いた感情について記憶している部分(情動記憶と呼ばれ、脳の扁桃体が担当)があるらしい。情動記憶は、具体的なエピソードを細かく覚えてないけど、感情は詳しく覚えているようです。

ものすごく感情が揺さぶる出来事があると情動記憶の方が強く働くけど、代わりに出来事の細部の記憶は曖昧になったりするらしいです。例えば犯罪事件の被害者の証言が曖昧だったりすることが良くあるのはこの仕組みに関係していそうですね。

感情を揺さぶる出来事に強く関連した出来事に出会うと情動記憶の方が強く働き、その時の自分に引き戻されるっていうのがあるとは言えそう。しかも感情は神経系やホルモンや脳内物質などを通して体の反応(動悸や汗やめまいや胃腸の働きなど)と関係するので冷静になれなくなる。

これは悲しみや怒りだけではなく、喜びにも同じことが言える。情動記憶の方が、即座に強く働きかけるので、過去の体験と照らし合わせて危険を察知したり、安全な場所や状況を見つけるのに役立つことも多い。

逆に過剰に反応してしまうこともある。それは悪い事ばかりではなくて、危険に対して過剰に反応できた方が、安全につながりやすい。そういう仕組みを知っていると、自分の感情に任せた行動や判断に対して、不正確だと非難するのではなく、却って合理的な行動だったと赦すこともできる。

感情と理性を対立させることが世の中には多いけれども、むしろ感情と理性の間でうまくバランスを取り、お互いを生かせるようにするのが大切なんだろうなとここ2年くらい考えることが多いです。

 

アルバムを作った経緯について

概要

 

 ギターとボーカルのみで録音しました。ただ普通その言葉から連想される音楽の対極を目指したところがあります。ジャンルが分からないわりには聴きやすく、また一聴の価値ありのアルバムになったと思います。是非きいてみてください。

以下は今回のアルバム全体についての解説です。色々な説明をしたところで、魅力を全部説明できるなら音楽を作る必要もないし、音楽の力は説明とは関係ありませんよね。

なので以下はアルバム聴いて興味がわいた方が読んだら面白いかもしれません。逆に以下を読んでからアルバムを聴くのも、こういう風に作ったんだなとわかるので面白いかもしれませんが・・・

 

音楽はspotyfy、applemusic、amazonmusicなど各種サブスクのサービスで全曲聴けます

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(バンドキャンプで気に入っていただければ買っても良いのですよ・・・ていうか買って・・・諸事情でバンドキャンプの方が音質もmixも良いです)

 

↓はリンク先です。

 

 

 

 

【アルバム解説】

 

アルバム名について

 

サンサシオン、というアルバム名は昔その名前のバンドを組んでいた所から来ています。「感覚」とか「反響」を意味するフランス語です。英語だとセンセーションですね。どの曲も、10年位前に同名のバンドをやっていた前後に作った曲。それにアレンジを加えたものです。なので、歌詞も昔作った歌詞で、当時と昔とでは、ものの考え方や感じ方が変わった部分もあります。ある程度歌詞を変えてはいますが、だいたいは同じです。歌い方や演奏の仕方を通して、昔書いた歌詞を当時とは別の立場から振り返っているような所があります。

 

アルバムを制作した経緯

 

今までボーカロイド曲やDTM曲ばかりだったのになぜ弾き語りのアルバムを作ったのか。それには事情があります。実は以前バンドを組んだり、ギター弾き語りで歌っていた時期があったのですが、当時私生活のゴタゴタや音楽的な限界を感じたことから、それを続けることができないと思うようになりました。でもその後、紆余曲折を経て、PCを使ったレコーディングやミックスがある程度できるようになったこと、当時とは時間がだいぶ経って、音楽に対する考え方も変わり、そのことを通じて昔とは違う歌い方ができるようになったこと、などからアルバムを制作しました。

なので、今回のレコーディングにはこれらの曲を作っていた頃の自分に対する回答ないしは過去の清算、という側面もあります。
とはいえ、やはり音楽に対する考え方の変化が、一番大きい気がしています。

 

音楽に対する考え方の変化について

 

昔はただ新しい音楽や美しい音楽、ないしは自分の感情や生き方を誠実に表現する音楽を作りたいと考えていました。今でもそういう思いは強くあります。

でも、それとは別に、音楽には、

普段の自分にはできない機能があるなと最近は感じています。
それはどんな機能でしょうか。

録音されれば作品としてそれは残ります。
そしてそれが、素晴らしい作品であれば、
私とは全く無関係に、私のいないところでも、
極論すれば私の死後でも、作品としての機能を果たすでしょう。

 

それは、人を元気づけたり、慰めを与えたり、
何か美しいものを感じさせたり、
そして本当に優れた作品であれば、
人の現実を超越したり、人の現実のみじめさや醜さを補ってくれたり、赦しを与える事さえもできる。
それは聴いた人自身の人生を認め、肯定することができるでしょう。


しかも、それは、このわたし自身の限られた身体、

価値観や意識や時間や空間を超えて、
わたしがもう会えない人たちにも、

わたしがこの先会う事も知ることも決してない人にも、
わたしが愛せない人にさえも、
届きうるものです。

 

そして、たとえ届かないとしても、
その方角を向いて、歌い演奏することができるものなのです。

 

もともとそういうものだからこそ、

古代から人は死者や動植物や神に向けてさえも、

大地や星に向けてさえも、歌ったり演奏してきたのだと思います。

 

そういう作品を実際に作れるかはわかりませんが
そこへ向けて作ることはできるし、
演奏したり歌う事は出来ます。

そして音楽は、それが一定の空間全体に鳴り響くものであるために、

人の感じる空気を具体的に変え、
人の喜びや悲しみや、

そしてもっと色々な感情によりそうための場所を与えてくれます。

 

随分大げさな事を書いてるなと思う方もいるかもしれませんね。

でも、それも大事なんです。
音楽はわたし自身じゃないから、どんな賞賛を受けても、

どんな非難を曲が受けても、

わたし自身が気にすることはあっても曲は気にしません。

わたしがどんなに大げさな説明をしたところで、

曲は極端に言えばそこから自由です。
聴いた人の好きなようにその人の中で位置を与えられる。

 

そういうことを考えるようになってから、
歌い方が変わり、そしてこれは、
作品として残す価値があるように思えたのでした。

 

なぜギターとボーカルだけなのか

 

わたしはもともと一人で演奏している音楽が好きです(勿論アンサンブルやバンドも好きですが)。
戦前のアメリカのブルースやフォーク、ギターと歌だけで独自の世界を作り出すシンガーソングライター。
ジャズでもクラシックでも無数のピアノやギターの独奏曲がありますよね。
そういうものに匹敵する音楽を(楽曲も演奏も)作る、というのが、昔のわたしの夢でした。

 

やった工夫

 

昔はもっと叫んでたり切なそうな感じだったのですが、叫ぶかわりにファルセットを使ったりして、圧迫感は減らしました。ボーカルもギターも歌とギターで別々に録音し、何度も繰り返し演奏し、部分的な録音をつなぎ合わせて、加工したものです。
なので、ライブで演奏は難しい、そういう音源になっています。今後は歌詞もアレンジも編成も、もっと別のものを作りたいと思っています。

今後も色々な意図をもって色々な音楽を作ると思いますが、今回のアルバムは、今後の活動のための核になるような気がしています。

 

まとめ

 

これは音楽を作る時にいつも感じることなのですが、出来上がった音楽は、たとえ一人で作っていたとしても、私だけで作ったとは言えないと思っています。そして、歌詞や曲のもとになった個人的な体験をくれた様々な人たち、一緒に音楽活動をしてくれた友人たち、音楽に影響を与えた様々なバンドや音楽家たち、公開前にこれらの曲について色々指摘してくれた友人知人たち、そして、これらの曲を聴いてくださった皆様に感謝しています。本当にどうもありがとう。

 

今回の音楽は、過去に自分なりに区切りとつけたい、という動機がかなりあります。それには成功したと言えますが、それとは別に、わたしには音楽で目指したい理想、音楽を通して他人を肯定すること、があります。今回はそこまで行けてるかはわかりませんが、スタートラインには立てたような気がしています。

わたしがどんなに尽くしても、誰からも好かれるような音楽は作れない。でも、どうかこれらの曲が、これらの曲のむこうにいる、あなたにとっても(あなたがどんな人であっても)、価値のあるものでありますように。

 

 

 

8か月かけて音楽アルバムを作りました。試聴というか全部聴けます。

 

今回配信用にサンサシオンというアルバムを作りました。

 

今まで作ったものの中で最高のものを作れたと感じています。

以下にリンクを貼っています。

是非聴いてみてください!

 

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note転載44(End) 折り返されて

「魂はみずから生気あらしめている肉体の中よりも、むしろ自分が愛しているものの中に住む、なぜなら魂は肉体の中に生命を有しているのではなく、むしろ肉体に生命を与え、自らが愛しているものの中に生きるからである。」(十字架の聖ヨハネ

秋だ。遠く広がる眺望。
あなたは屋上の欄干に手をかけて、東京の市街地を見ていました。
混じりけのない空虚のように、蒼穹は地上を見下ろしていました。
空の高さを引き立てるように、雲は東へと流れていきます。
それはこの星で日常的に見かけられる光景の一部です。
天という言葉にふさわしい高さについて、
あなたは見上げています。

時間と空間のありようについて、
あなたは考えます。
この宇宙が、生まれた時から、ずっとこのままでいるもののことを。
大気は、植物が地表を覆ってから、
何億年という時間をかけて、その組成を変えていったのでした。

それに比べれば、国家の興亡も、大都市の消長も、
夢のように短く消えます。

それ以上に、あなたのこれまでの過去も、残された未来も、
かぎりなく短いのです。

 

にも拘らず、だれも、自分の人生を離れて、遠くには行けません。
誰も、別の人生を生きることがありません。
小説や映画や舞台の中に、短い言葉や音楽の中に、
あるいはあなたが目にとめた人のふとした表情に、
あなた自身とは全く別の人生を、夢のように垣間見たのだとしても、

それはあくまで、あなたの人生から垣間見られたものでしかありません。

 

あんなにもあなたの心を動かした一行も、
あなたの人生のなかの一行として、
あなたの人生のなかにとじられています。
あなたの体、あなたの形、あなたを組成する、
30兆以上の細胞でできた、この本の中に。

古代の詩人や、歴史上の英雄や、映画俳優にあこがれても、
想像や伝説の登場人物にあこがれても、
それはやっぱり、あなたの人生の中での出来事でした。
あこがれるあなたも、あこがれられたその人も。

 

大勢の人がそうであるように、かつてあなたは、
自分と家族との関係や、
恋人との関係や、
様々な友人知人との関係に、
それから社会との関係に苦しんでいたのでした。


あなたはその人生を、変えようとしました。

あなたは生まれた時に名付けられた名前とは、
別の名前を名乗りました。

生まれた国とは別の国で暮らしてみました。
いくつも仕事を変えて、住まいを変えました。
別の自分になろうとして努力したのでした。

 

こどもの頃から、あなたには不思議で仕方がありませんでした。
自分に名前のあることが、
自分に顔のあることが、
自分に意識のあることが。
自分がまさにこの自分であることが。

あなたは前世や来世や異次元の世界にあこがれました。
空想や幻想に、夢や狂気にあこがれました。
人類の歴史や未来世界や宇宙の果てにあこがれました。
天体の摂理や、微生物や細胞の世界にあこがれました。
世界中の神話や、物語に、神秘や奇跡にあこがれました。
言葉の響きや音楽の響きに、旋律や和音にあこがれました。
あなたは悲劇や美にあこがれました。
そうしてあなたは、無にあこがれました。

それらはみんな、あなたの人生の限界にあるもの、
いわばその生の限界に開いた窓でした。

 

あなたはかつて、人生という言葉を聞くたびに
自分自身を主人公に見立てた、
生まれてきてから死ぬまでの、
スクロールしていく物語のようなものを想像したものでした。

でもある時理解したのでした。

人生というのはあなたを外側から見ることで、
浮かび上がってくるだけのものではなく、
あなたが内側から見続けてきた、聴き続けてきた、触れ続けてきた、
感じ続けてきたもののすべてをも、含んでいるのだと。

そしてあなたに感じられてきたものは、それらの光景は、
まさにあなた自身から感じられてきた光景、
あなた自身のその時いる場所から見られた光景でした。
つまりそれがあなたの人生でした。

 

一つの生命がそこにあるということは、
一つの物理的な時間と空間の中に、
その生命が確かな位置を占めているということです。
そして確かな場所を占めているということは、
それ自身としての感覚を生き、体を生き、
意識を生き、ひとつの世界観を生きている、
自分自身の過去や記憶を、未来についての期待と不安を、
その生自体を流れる時間を、生きているということです。

 

他の人と同じ生を体験したとしても、
すべての生は、明らかにおのおのの生とは違う生を、
独自の位置と角度から、温度から、湿度から、知性から、感覚から、
身体から、意識から、意志から、それ自身が体験してきた、
時空間の一貫性や出来事の連続性の中から、生きているから、
そうだとするなら、すべての生命は、文字通りかけがえの効かない、
それ自身でも忘れてしまうような、
独自で、そして秘密の生を生きていると、あなたは感じたのでした。

 

その人の体験してきたことのすべてが、その人の人生をつくるなら、
その人のいる場所から見えているすべても、その人の人生で、
他の人はその人の体験すべてを、肩代わりできません。
たとえばあなたから見えるだれかの姿は、その相手からは見えません。

同じように、だれかから見えるあなたの姿は、その人が死んだら、
永遠に同じものは失われます。

あなたにとっては、その人に映るあなたの姿は永遠に謎めいているでしょう。

その人にとっては、あなたから映るその人の姿は永遠に謎めいています。
あなたとそのだれかは、別の人生を生きています。

そしてお互いに自分の人生を離れることはできないまま、この世界に生きています。

だから、それぞれの人生は、それぞれにとっては、
この世界と、この宇宙全体と同じくらいに広いのです。

 

今年はじめにあなたの友人が亡くなった時にも、

あなたはそういうことを考えました。

あなたの友人は自分の人生から離れていったのでした。

この世界から離れていくことで。
でも、彼の苦しみをあなたはそこまでは知りませんでした。

あなたは彼との関わりや、
彼の声や、彼の表情を思い出したのでした。

そして、以前別の友人がなくなった時に、
同じことがあったのを思い出したのでした。

 

自分が亡くなったわけではないのに、
自分の中で何かが亡くなった、ということについてあなたは考えました。

なぜそう感じたのか、なぜ思い出すことについて

強い感情的な反応を覚えるのか。

でも思い出そうとしたのか。

あなたが気づいたことは、
彼が亡くなった時に、彼の中のあなたは失われてしまい、
またあなたの記憶の中で生きている彼は、
あなたが彼だと普段思いなしていた彼は、
もう自分の本来棲むべき居場所を、なくしてしまったということでした。
記憶の中の登場人物に帰っていくべき場所がないということでした。
どうして人の社会に墓があるのか、理解できた気がしました。


あなたは亡くなった人のことを想って泣きます。

ただ歩いているときに、仕事をしている時に、
寝るために横になった時に。

それはたとえば彼が生きていた時、何気ない会話の中で、
笑顔を浮かべて話していた時のことを思い出したからでした、
思い出したというより、不意にそれがあなたにせまってきたからでした。

ただよく思い返してみると、それは彼の見ていない彼の表情です。

 

ということはつまり、これはあなたの記憶です。

 

あなたはだれかとかかわることで、その誰かとかかわった記憶を、
あなたの中に住まわせています。
あなたの中で、彼の物質的な部分に収まらないものは、
ただの物質でしかない、彼の遺体には入っていけません。

彼との記憶は、あなたから見えた、
生きている時の彼の様子や性格の記憶も含んでいます。

そして、あなたの記憶の向こう側では、
あなたにはわからないその向こうでは、
彼の内面が、あなたとは別に、生きているのだと、
あなたはいつも無自覚に信じていたのでした。

そして今でも信じています。

 

彼の内面に生きている彼自身は、
あなたの内面に生きていた彼とは、同じではない。

彼はあなたとは全く違った感じ方で、この世界を感じていたのでした。

だからこそ彼が亡くなったと聞いた時、

理不尽なことが起きたと感じたのです。

彼にとっては、無論そうではなかったでしょう。

 

同じこの世界に、

この時間と空間の中に生きているのだとしても、
彼は彼の人生の中に閉じ込められ、
あなたはあなたの人生の中に閉じ込められています。

 

だけれど、それでも、
あなたが彼のことを悼むことができるのは、
あなたのなかに彼の記憶を作り出すことができたからです。

 

たとえ魂という概念や、あの世という概念が、
科学的には実在しないのだとしても、
人間的にはそれが存在した方が合理的なこともあるのでしょう。

人というのは何か根本的なところで、

そういう風にしてしか応えようのない謎を持っています。

人は普段自分の肉体の事を自分の命だと思っています。

けれども、あなたは思います。

実はその人をその人で有らしめているのは、
その人の人生の方なのではないかと。

肉体はむしろその人生を通過していくことで、
体験する基軸になることで、
その人自身としての人生を刻み付けていくような、

そういう場所に過ぎないのかもしれないと。

 

人生というのは、その人が時間的空間的に体験し、
感じ取り、なおかつそれに解釈や判断を加え、
行動していく場所、

そしてその場所の歴史と記憶と体験の総体そのものなのだと。


そういう意味では、

人生というのは、いわばその人の第二の身体を作っていると、
言ってもいいのかもしれません。

あなたから見えるこの世界は、
あなたによって体験付けられ、記憶付けられ、
意味付けられ、価値づけられ、名付けられ、
動機付けられ、目的付けられ、つまりは位置づけられ、
そうすることで、あなたの記憶と内面世界を投影させられる場所になる。
これまであなたはずっとそうしてきたし、
これからもそうするのでしょう。
そうしてそれが、あなたの内側から体験された人生です。

 

もっともその内側も、あなたが生まれてきてから体験し、判断してきたものの、

反映の総体からできている、とも言えるのです。

 

蒼空というのは、子供のころから今にいたるまで、同じ高さで同じ色に見えます。

空が青いのは青く感じられるほど単純に遠いからだと、

古代の中国では信じられていました。

今では空気中の分子が光に反射し散乱するせいだといわれています。

そしてあなたはこどもではなく、

後百年もすれば、あなたはもうここにはいないでしょう。


秋はいつも似たような涼しさでやってきます。
でもあなたも、あなたの周りにいた人たちも、変わっていきます。

あなたは今に至るまで、

この世界に生きている違和感を拭い去ることはできませんでした。
あなたはいろいろな点で別の人間のようになったけれど、
自分をうまくコントロールできないという点はあまり進歩がありませんでした。
そしてこの言葉が書かれた後も、

社会は変わっていくし、あなたは変わっていくのでしょう。

 

昔のことを思い返してみても、
すべては過ぎ去ってしまい、よくできたフィクションのようにも思えます。
過去になってしまえば、愛でることもができます。
フィクションの登場人物にみたいに、あなたはあなた自身を認められます。

そのためには、あなたをあなた自身から突き放すことが、

何度か必要だったとしても。

 

亡くなった人たちや、
たぶんもう二度と会えない人たちがいます。

あなたの苦しさは本当だったし、
あなたの感じた美も、あこがれも、喜びも、
慰めも本当だったのでしょう。
それは苦しさによって裏打ちされて、
もうあなたのものです。

あなたに憑りついてあなたからはなれなかった光景は、

その音楽は、
その人たちは、
あなたが出会わなければ、当然ありえませんでした。
あなたが直接感じたようには。

 

誰もが、それぞれの人生に閉じ込められて、

あるいはそれぞれの人生に家のように住んでいます。

というかその家がその人です。

その家は目には見えないのです。

でもあなたはそれをみとめたいと思いました。

 

つまりあなたが見聞きし、感じ取り、考えることのできるもの以外の場所で、

それが決して、許されないような場所で。

観念ではなく、実際に誰かが生きていることを。

 

あなたは永遠にあなた自身のものであり、
あなたのあたえた人たちのものです。

あなたはあなたが生きている以上永遠に、
あなたの人生にとざされているから、
他の人の人生にあなたをあたえることができます。

あなたがあなたの人生の中から出られないからこそ、
あなたは別の人生の秘密を守ることもできます。
あなたは別の生のかけがえのなさを、
別の生の尊厳を、守ることができる。

あなたが人生を愛することは、

あなたがただあなた自身を愛するのとは違います。

 

そしてあなたというのは、

あなた自身であり、同時になにかもう別のものです。

 

あなたと出会って別れた人たちは、
あなたの人生と記憶のかけがえのなさにおいて、
あなたの一部です。

 

――そうしてそれは、
あなたの存在や、言葉や、しらべの一部になっています。

 

(2018年)

 

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noteの転載はこれで終わりです。

この最後のものだけ、内容を修正し推敲してあります。

今まで読んでくださった方々、どうもありがとう。

 

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2002年から2018年までに書いた詩や小説などをnoteにまとめました。 - Keysa`s room

 

note転載43 血統書

ヘモグロビンは酸素を二酸化炭素に変える赤色、
葉緑素は光を酸素に変換する緑色、
かつて原始的な細胞が真核生物になり、
35億年以上昔に、植物細胞と動物細胞に分かれたころから、
二つの種族は共生関係にあったのだと本で読んだ。
樹木はわたしの遠い祖先が生きていくための必要条件をくれた、
より遠い太古には、同じ祖先だった、そういう種族の末裔だと。

そして植物は最初に陸地に上がり、
空の上にオゾン層を作った。
わたしが朝方日光浴をしている樹木に奇妙ななつかしさを感じるのは、
海から上陸したばかりの超古代の奇妙な緑色をした生物に感じるのは、
そのせいなのだろうか。

わたしが、
というよりわたしの種族が、
今まさにこのような種族であるために必要不可欠な条件は、
あまりにも多すぎる。
宇宙に偏在する暗黒物質の量や、
重力と宇宙の膨張速度のバランスや、
太陽と地球との間の今の距離感や、
植物が地球の大気の組成を大幅に変えてしまうことがなければ、
カンブリア紀における爆発的な生物種の多様化がなければ、
氷河期や白亜紀の恐竜の大量絶滅がなければ、
そのほかの様々な気候変動がなければ、
人という種族はこのようにこの星にはいなかったし、
人工知能を作ることも、
遺伝子操作をすることも、
月やほかの星に行くこともなかった。
そしてこういうことを考えることさえなかった。

かぐや姫が月につれていかれたり
李白が月と一緒に酒を飲むこともなく、
シェーンベルク月に憑かれたピエロを作ることも、
ヴェルレーヌが月光の下で踊る彫像の詩を書いて、
ドビュッシーフォーレがそれに音楽をつけることもなかった。

釈迦が沙羅の樹の下で悟りをひらくこともなく、
天武天皇古事記日本書紀をまとめるように
命令することもなく、
秦の阿房宮やアケメネス朝のペルセポリスが略奪され打ち壊されることもなく、
フランス革命からIT革命にいたるまでのあらゆる革命もなかった。

あらゆる科学や思想も、意識も、抽象思考もなく、
絵も地図も定規も、戦争も平和もなかった、
概念がないのだから。

宇宙が冷えることがなければ重力はなく、
恒星がなければ炭素がなかった、
より古い星が崩壊して超新星爆発を起こすことがなければ、
太陽も地球も月もなかった、
ということはあらゆる占星術も、天文学もなかった。

奴隷制も、ユダヤ人の虐殺も、あらゆる貧富の差も、
あらゆる病もなく、差別もなかった。
憎しみも喜びも、肉体の享楽も肉体の牢獄も、
あらゆる理性も、ニューロンのネットワークも、
IPアドレスのネットワークも、
免疫系も、トポロジーも、
量子力学の概念も時空概念も虚数時間の概念もなかった。
空気がなければ、この水もなければ、
虹もなかった、
音階がなければ色彩もなかった、

目の前で揺れている夏草も、
夏草をモチーフにした詩もなかっただろう。

だけれどこう考えることもできる、
今わたしが述べてきたもののすべてがなければ、
この宇宙はなかったのだと。

というのはわたしたちの存在することに、
あまりにも多くの偶然が必然的に介在しすぎていて、
それを少しでも曲げることは
宇宙における物理法則を変えてしまうことで、
そうしたらこの宇宙の歴史はなしくずし的に逆流して
崩壊してしまうから、
わたしたちはまさに今このようでなくてはいけなかった。

いつか、
量子テレポーテーションや量子トンネル効果が、
次元が5次元以上存在するという仮説が、
様々な超能力や超常現象を解明する時がくるのかもしれない、
量子コンピュータのテクノロジーやバイオテクノロジー
AIテクノロジーが結びついて、
人類やAIの進化速度をインフレ的に増大させるかもしれない、
人類よりも複雑な抽象性と感情と身体を持った人工知性が、
太陽系や銀河系にコロニーを作るのかもしれない、
だけれど、
それもこの物理法則の一部であり、
いわば無数の出来事の自然淘汰のすえにあらわれた、
宇宙のはじまりとわたしたちの存在の間に引かれた、
ある時空間の連続性の線分、外側からは、必然と呼ばれる線分の、
延長線上にしか、
あらわれはしない。

奇妙なことではある。
わたしは記憶を通して想像された過去と未来を旅する。
しかもそれは書かれることによって、
仮想的な時間旅行を、他人にもさせるのだから。

わたしがこの文章を書いたことも、

あなたがそれを読むことも、
非人間的で人間的な、
無数の必要条件がそこになければ、
ありえなかったのだから。

(2018年)

 

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