note転載11 相模原で 1

 

 散らばる事をやめない太陽の光の自然さを感じていた。けれどもそれは普段のようではなかった。おぞましいくらいに、やさしくて明るく、冷たい輝きだった。――僕は自分自身の心理的なリアリティーの中にあまりにも沈みこんでしまった、そう彼は感じた。――風景はそのせいで、匿名的な様相を帯びている――京王線の、橋本駅駅前通りを、その瞳の水面に無言を湛えながらも、夥しくたち騒いでいる街中に、彼はひとりで立っていた。京王線の、片方のちょうど終点にあたるこの駅には、まだ新しい駅ビルが立っていて、様々なテナントが店を連ね、一番上には市役所の出張所や、在庫の充実している図書館があり、様々な催しのためのコンサートホールがあった。ここは相模原市の中では、いちばん活気のある場所だろう。――だけれど、彼の内部では、白い炎にとろけて蛇のような踊りを繰り返している、血の機械、血と犠牲を欲しがっている残酷な機械、というイメージが渦巻いていた。――その機械の表面には無数の穴がスポンジのように開けられていて、その穴の中からは様々な音色の風が流れた。その風たちは、思いつくまま様々な事を彼に向かって物語っていた。

 ――時間を機能させるひとつの機能、感受することのできる、あらゆる内外的な機能たちは、代謝運動を活発にさせて瞬間を過酷に瞬間に印刷させていく。――それは彼の目の前にもう一つの、イメージだけで構築された世界を現像させた。それは自分の子供を生んだ途端に食っていく、蒼い夏の光のやわらかいドレスたちのようだ、と彼は思った。――いくつもの幻想を、風景に二重写しにさせるように、横目にしながら、力のない動きのままで、彼は歩いていた。いつの間にか橋本駅から相模原駅に向かう線路沿いの道からそれて、田名のあたりにまできていた。起伏の緩やかな坂道が続いていた。そこは大きな部品工場ばかりが立ち並んでいる区画だった。――一心不乱に歩いていくと、坂道を登りきって、数メートル手前の辺りで、大きな家の庭先が、右手に顔をのぞかせていた。近づいてみると、羊歯や棕櫚の木や竜舌蘭の花々が、やけに大きくそびえ立っていた。――そうしてこの植物たちは、金属的なやわらかさでもって、すうすうと呼吸し、自分の体を膨脹させたり、収縮したりを、繰り返していた。――水っぽい、翠色をしている、ぼやぼやした生き物たちを、背景にして――庭の片隅では、何か鶏のように高い声が、自分自身を主張していた。それは、言葉に置き換えてみると、「ヴェール、ヴェヴェール、ヴェヴェール、ウヴェール」と、いった響きだった。――歌っていたのは、克明な輪郭を持った、小さな、赤い、びらびらした彼岸花たちだった。雅やかな風情を紅々とさらけ出すように、自分の生命を謳歌するみたいに、咲き乱れていた。音楽みたいに、彼らは溢れ、流れ出ていく、自分自身の存在の赤さで、いつしか彼の、心的な空間を、満遍なく満たしていた。――「空気が直前に声を出す直前の声を直前に呑んでいる、空気が声を出す前の空気を直前に呑んでいる」と声がした。それは泡のような、いまいち聞き取りづらい声なのに、何を言っているのか正確に聞き取ることができた。ずくずくと脳髄が反応していた。頭が詰まりそうな痛みを覚えた。――上空満面が満面に呼吸していた。それは半透明な――触覚的には半透明の被膜のように、咲き乱れ、めくるめくようにゆらめいていた。――大勢の気配たちが、全身を絡みつかませるようにもつかれあって、ぐなぐなぐなぐな、蠢きやめずに、もつくれめいて、高速でうごめいているのが分かった。空が息を吸い込むたびに世界は収縮した。息を吐くたびに、それは膨張して拡散した。――自分の内臓が、物理的にも精神的にも、裏返しになってしまい、剥き出しになったままで、環境世界の中に溶合ってしまったと思った。それはもはや、内臓感覚というよりも、外臓感覚といってよかった。――それが澄み切った青空と不可解な姿で、調和しているようだった。彼はもはや自分をなくしてしまった気がした。今の彼の内側にあるのは一つの無だった。彼の彼という輪郭を、器を作っているのも一つの無だった。彼の外側にあるのもやはり無だった。――青空は無だった。そしてその無の中を、水浸しになったように、流動している空虚の中を、なにかが生々しい魚のように、鰭を躍らせて遊泳していった。それはとても薄い存在だから、人間の目には見えないのだと彼には分かった。他の人間には、見える筈もなかった。――そこには波動が生まれ、――その波の中からは、白っぽい光の暈たちが、白っぽい、こどものように、生きてうごめく泡たちが生まれた。そこに広がっているのは、今まで誰もが口にした筈なのに、誰も口にしたことのなかったような真実だった。今までの歴史の全てによって書かれたことがある筈なのに、彼以外の人間によっては、決して書くことのできない世界、歌われる事の決してない空間だった。――その場所は彼にとっては全くの他者であり、同時に彼自身の体験した事のすべてだった。あるいは体験したと彼が思っていたことの背後で、どこまでもどこまでも延長されてひろがっているような、すべてだった。――それは未来の方から、巻き戻された形でやってくる過去だった。それは彼がおそらくは一生をかけて追いかけていかなければならないような、そうして実現させていかなければならないような何かだった。――それは、まるで何かの精神生命体のようだった。目には見えないし耳にも聴こえなかった。この手で触れることもかなわなかった。でもそれは、世界の中を、無の中を、白く輝いている無の空洞を、かけずり廻っていた。――そうして、空の向こうの水面で、飛び跳ねるように、身を翻すように、よくしなる長い長い神々しいニシキヘビの尻尾が手を振っていて、――水しぶきと一緒に、立ち消えやすい薄明の、薄命の結晶体たちが、きらきらきらきら舞い散っている姿を、彼は幻視した。

――彼らは彼のことを、白紙のむこうにおきざりにさせて、自分自身を分裂させたり、くっつけあって、何の屈託もなしに、ひたすらうつろな、うつろで豊かな無性生殖を、尽きることなく繰り返していた。――今や世界は実際一つの臓器に、有機的な器官の秩序づけられたシステムに変化していて、とめどもなしに、代謝していた。無限の瞬間はこの心臓に、遺伝情報のように印刷されて――創造され、泡立ち、あふれて天上に溶け合い、光を放って消滅していた。何かやわらかいものたちが、明るさの背中の、その背骨の奥に従き続いている深いくらがりの淵から浮かび上がっていた。目を醒まして、それは時のうつろいのなかで連続していく大気の膜と、そのまま自然にひとつになって、祝福していた。自分自身を祝福していた。――完全な愛、とでも言うしかなかった。けれどもそれは奇妙な愛だった。そこには自分も相手も存在しなかった。自分と相手が混在しあったものが、自分と相手の混在しあった別のものを、関わりあっているようだった。それはたとえば、世界がひとつの体でできているのに、その右手と左手が別々の意志を持って、ひとりでに動いているかのようだった。――何も見えない、と彼は思った。――不可能なように動きを止めては溢れ出ていく瞬間たちにすべてを奪われ、あしゆびの先からこそぎとられて、一生懸命になっては炎上していく光のシーツの内側にいる自分自身を、彼は感じた。たちあがあっていく響きの中で、大きな時空の迷路の中に閉じ込められて、時空によって建築された壮麗な宮殿のなかに幽閉されて、それらのすべてを構成している音楽のなかで、彼は自分が人間たちの秩序を超えた、目には見えない河の流れに溶合っているのを感じた。それは自分が一ミリにも満たない小人になってしまったような感覚だった。自分のまわりに聳えているすべてのものが、あまりにも偉大に思えたからだった。――あるいは自分がひとりの巨人になって、物凄く小さい微小な点を、凝視するようにかがみこんでいるような錯覚を感じた。その点はひとつの穴になっていて、巨大な自分自身の存在が、その穴の中に吸い込まれていくような気がした。それはなにか得体のしれない、けれども差し迫ってくるような不安だった。それは恍惚だった。いつまでもそのままでいられたらどんなによかったろう。それは死だった。それは他人の生だった。

 ――けれども、そんな瞬間は、ものの数分も続きはしなかった。客観的には、彼の目の前にあるのは、何の変哲もない、相模原の街でしかなかった。そうして彼を、待っていたのは、他人に対する不安や不信だった。――あるいは、現実的なもの、と呼ばれるような全てのものに対しての、異和感だった。そう、異様な雰囲気を纏いながら、空は蒼く、透き通っていて、道路沿いの雑草たちは、日射しの力に、膝を折り曲げて服従している、名前も知らない、抽象的な貴族たちのように、美しく輝いていた。そしてその美しさの向こう側には、どんなものもたどり着くこのできない、凍りつくように深い死の闇がひろがっているのを、彼は感じた。――それは他の何よりも説得力のある幻視だった。そしてその深い闇の奥に、強烈な魅惑を感じた。とてもこわかった。そうしてそれはとてもかなしかった。――世界はこんなに美しいのに、どうして俺は死なないんだろう、と彼はよく思った。彼は二十才になったばかりだった。彼はどこにも身寄りをもたない、ちっぽけな存在でしかなかった。自分の体の重さを感じた。それは重力によって自然と立たされているだけの生き物、という感じだった。それなのに、彼は生きている。そして自分の感じたものを現実の形にかえなければいけなかった。そうしてそのあとはどうだって良いと思った。それを形にした後でなら、ようやく自分にけじめを付けることができるだろう。それが終わったら、どこか高いビルの上から飛び降りて死のうと、彼は思った。そういうことを考えていると、体中が疲れきって、みぞおちの辺りで、疼くような痛みが走った。そのたびに、肉体こそ死ねばいいのだ、と彼は思った。彼は具体的なものを憎んだ。肉体を憎み、あらゆる固有名を憎んだ。虚無を必然のように愛しながら、同時にそれを憎んでいた。――彼はたぶん自分で神を求めていた、そしてそのことを知らなかった。けれども痛みは言葉の代わりになって、彼に一つの神の名を示唆することを、やめないでいた。つまりは無限、という名で知られる神を。

(2003年頃から執筆し2012年に完成 その後微修正)

 

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