note転載8 蜘蛛の転身

 春の夜だった。上野公園では外灯の照明が仄かに呼吸していた。瑣末な動きが秋爾(しゅうじ)の目にとまった。――植え込みの躑躅の茂みでは、上下左右に込み入っている木の葉や枝枝の間隙に、透明な投網でできた足場が、十重二十重にも指し渡されていた。そこにはやわらかい弾力があって、十本の生きた線分たち――誰かの髪の毛のように黒く毛羽立っている、燃えるような脚をつけた、奇妙な節足動物が――一匹の蜘蛛が、粘性のある白い糸をしうしうと吐き出しながら、蠢いていた。

 その光景を思い出しながら、部屋に戻ると、プラスチックのビーズでできた玉簾のヴェールが頭にかかって、しゃらしゃらと揺れた。その振動の軽やかさの心地を感じながら、秋爾の皮膚の表面は、鼓膜やその他の感覚器官と一緒になって、ざらざらしている小刻みな反響を、まるで脱脂綿が水を吸い込んでいくような調子で、しんみりと受けいれていった。身勝手で幼い小さなけものに纏い付かれているようだと秋爾は思った。そうして連想しながら、連想の飛躍に、自分でもおもわず苦笑しないではいられなかった。

 リビングに入ると、中央におかれた、木目模様のはいったテーブルの上には、てのひらに収まるくらいの大きさの、ガラス瓶が置かれていた。――その中には、コーヒー用の角砂糖が詰め込まれて、窮屈そうにひしめきあっていた。お互いの質量を自己主張するように敷き詰められた、少しいびつな白い四角形たちを見ているうちに、その数の感じに――数がたくさん集まっている感じに、つまりひとつの「数」とでもいうしかないような、静かな強迫に、自分の瞳が吸い寄せられていくのを秋爾は感じた。それは四角い形をしているのだけれど、まるで誰かの瞳のようだと不意に思った。

 ものを見てその数を数える、ということは、それだけで数えられたものに自分を見返される、という事かもしれない、そして、数えられたものは、それだけで、もう最初の物体とは違うものになってしまうのではないだろうか。もしもそれが生きているものなら、なおさらそうだ。――それというのは、生きているということは、静止した状態ではなく、明確な形を取り留めている状態でもなく、そうしてそのために、たやすく数を数えることができ、数にまとめることができ、名前を付けることができ、たやすく定義することができる、そのおかげで思い通りに使いこなすことができる、そういうもの、ではないからだ。それはいつでも、型から逃れていくものだから。

 物たちは、見ている人間たちの知覚を借りて、硬直した形から抜け出して、新しく生まれ変わることを訴えている。――そして今、感覚によって、無意識のうちに数えられたたくさんの白い角砂糖たちは、みんな揃って秋爾を見ていた。――それはこの砂糖粒の塊たちの中に、生きようとしている、そうして何かを訴えようとしている、誰かの瞳が乗り移っているみたいだと、秋爾は思った。――あるいは秋爾の深層心理の中に潜んでいる誰かの、いや、ひょっとしたら秋爾自身の、いつかの視線が、これらの角砂糖の中に――この原稿用紙の方眼のような形をしている、窓のような形をしている、スクリーンのように白い――白いブロックの塊の中に、憑依しているのかもしれない。――亡霊みたいに、何か思い残した事を、伝えようとしているのかもしれないと、秋爾は思った。

――そしてふと、昨晩なんとなくコーヒーを飲みたくなって、棚からティーカップを持ってきて、インスタントコーヒーを入れた時の事を思い出した。白い陶器の表面に、肌理の粗く砕かれている黒いコーヒー粒たちが、蟻のように流れ落ちていく。――お湯を注いで、そうして瓶の蓋を空けて角砂糖を三つほど入れた。5ミリ程度の小さな形が、熱と水分のせいで柔らかくなって、そのまま形を崩壊させていく。その様子はまるで、ティーカップの中であっぷあっぷと溺れている小人のようだと、秋爾は思った。

 けれども、今になってそれを思い返してみると、もしかしたらこの砂糖たちは液体の中で、自分の形を崩していくのを楽しんでいたようにも思えた。無感動な恍惚の表情を浮かべながら、熱の中に溶け出して、人工的な甘さだけを残骸のようにとりとめたままで。それは秋爾の無意識の投影だったのだろうか。

――人は時として自分を憎み、あるいは自分の環境自体を憎み、それらの崩壊を夢見る。そうして後になってから、どうしてあんなに簡単に壊そうとすることができたのだろうと、自分でも戸惑い、訝しんでしまう。いくらでも他の選択肢があった筈なのに。証拠にそれが終わった今になってからも、この現実とはまた別の、いくつかの現実の可能性が、夢のように彼の連想を誘うことがある。けれども今は、この現実の中でさえも――秋爾は、自分に対する幻滅を感じていた。

 それは今までの自分に対して、あるいは自分と彼女の関係に対して、すっかりなんでもなくなってしまったかのような感覚だった。――まるで喫茶店に置いてある、水を吸った紙おしぼりみたいだ。使い捨ての、ビニールで包装されている――でも紙おしぼりは、魚じゃないから、水を得たところで得意になったりはしない。砂糖じゃないから、水に溶けても崩れたりはしない。甘くもないし、食べられない。――ただ汚れを拭き取った後に、捨てられるだけだ。――連想しているうちに少し口角が緩む――苦い面白さではある、またコーヒーでも飲むことにしようか。

――すると、フローリングの乾いた地肌を、八本の脚をつけた小さな女郎蜘蛛がすうっと横切った。秋爾は、さっき外で見た蜘蛛の事を思い出した。けれども部屋の中にいるそれは、まだ小さくて、まだ巣を作って蟲たちを捉えることもできないのではないか、という様子だった。――小さいものはそれだけで愛でる対象になる。それが少しグロテスクだったり、奇妙だったり、異常だったりしたところでそれは変わらない。――少なくとも秋爾にとってはそうだった。

――「奇形」とか「悲しみ」とか「傷口」といったものを連想させるものたちを、強く愛するようになったのは、一体いつのころからだったろう。昆虫だとか爬虫類だとかに、強い魅力を覚えるようになって、昆虫の写真集を本屋で買っては、部屋の中で、長い間よく眺めていた。彼らの盲目的な生命力の持つ、どうしようもない身勝手な冷たさを見ていると気が安らいだ。なぜ蟲や鳥に生まれることができなかったのだろうと良く思った。

 秋爾は、自分の感情や想像の中で、あまりにもたやすく自分を見失ってしまうことができた。そしてたやすく人やものに共感してしまえる代わりに、あまりにも周りのものに影響されすぎてしまう人間だった。――自分としての、掛け替えのない精神的な主人としての、自我があるのが信じがたいことだと、いつでも思っていた。

 自分に性格があることが、顔があることが、肉体があることが――どうにも不自然なことに思えてならなかった。鏡を見るとそこにいるのはいつでも他人だった。――そして様々な矛盾した人たちに影響されてしまったせいで、自分の事を、人造人間のような、つぎはぎだらけで出来ているような、居心地の悪さを覚えた。だから、自分の精神と肉体の間にいつでもまとまりのつかなさを感じていた。――だから女に依存し、依存した女、というよりかは依存する自分自身に振り回されて、追いかけてしまっていたのだろうと、秋爾は考える。――愛せない自分の代わりに他人を愛するということ。まるで、そのひとが、自分の欠如を、自分の体中に刻まれた裂け目を――器用な手先で、上手に繕ってくれるみたいに。

――けれどもそれは、他人にとっては、ただの都合のいい存在、人形のような存在になるのか、もしくは他人を都合のいい存在にして、人形のように利用することになるのか、要は同じような事だったのではないか、と秋爾は思った。――それは他人を自分のイメージの人形にすること、あるいは自分の他人のイメージの人形にする、ということだったろうか。――それは自分自身の安息や快楽のために他人を犠牲にするという類のエゴイズムだったし、あるいはそういう相手のエゴイズムを、すべて観察した上で受け入れるということだっただろうか。受け入れることで――しかも本当に傷つき、苦しみながら受け入れることで、自分が相手の鏡になって、相手のエゴイズムを相手自身に突きつけ、その上で相手の醜さを赦すことで、むしろ相手を自分の言いなりにさせようとすることだったろうか。

――今にして思えば、そういう自分が惹かれる女というのは、同時にそういう自分に惹かれる女だった。――つまり、自分と同じような事を望みながら生きているひと、いつでも自分と似たひとだった。――それは確かに奇形的だと彼は思った。そうしてそれは、何か間違っているという感覚になって、自分が正しさから見放された人間だという感覚になって、彼に付き纏っていた。秋爾にとっては、恋愛とは共犯関係に似たものだった。――それは社会とか正義とか倫理とか、そういうこととは、直接関係を持ったりはしない、そしてその時に現れるのは、自分自身を否定しようとするお互いの欲望と、自分自身を、あるいは相手を、社会を、すべてを無化しようとするお互いの欲望――そうしてその事に対する後ろめたさのような感情だった。――だけれどそれにも関わらず、それは確かに彼自身だったし、彼女自身だった。

――自分を否定しようとするときにはじめて、自分自身を感じられるというのは、なるほど、確かに皮肉としかいいようがなかった。――いつでも自分からつきまとって離れない矛盾というものを、人はあたかも、それが自分自身の大切な核であるかのように愛してしまうものなのだろう。――それに近づきすぎることはほとんど耐え難い事であるはずなのに、何度も同じような人との同じような出会いを繰り返してしまう。――まるで、電灯の光に吸い寄せられる蛾や蝶みたいに、引き寄せられて、近づいて。――その先にどんなものが待っていたとしても、気にも止めずに。

 片隅の暗がりへとしずかにすべっていく、蜘蛛の背中を、追いかけるともなく目で追った。――これは彼女が生きながら姿を変えて、自分の部屋にまでやってきたのだとしたらどうだろう、と秋爾は思った。蜘蛛と人とでは、以前のように、眼球運動だけで――つまりはまなざしに宿った光の加減だけで、会話をするのは難しいだろう。

(執筆:2012年 その後加筆修正)

 

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