note転載7「最初にあった、ということの本当らしさよりも、後から来た、ということの欺瞞性を愛する、という倫理、あるいは、人工的であることの倫理性について」

2018年の注記:以下の文章は2011年にクレマスターという場所で行われた発表の原稿です。当時のわたしはフランスの精神分析家である、J・ラカンに私淑していました(ちなみにこのころわたしは伊藤嵯輝(いとうさき)という名前を名乗っていました)。ここで言う精神分析はフランスのラカン派の精神分析を念頭にいれています。

クレマスターという場所はもう当時とは色々変わっていますし、ここに書いたような発表をする場所でもありません。もう何年もそこには行ってはいません。また当時ほどラカン引いては精神分析に対して強いシンパシーはない事も断っておかなくてはいけません。

そして、これは強く注記するべきだと思いますが、わたしは、最終的に、当時出会った分析家の方にも、その後何人か出会った分析家の方にも、精神分析を受けることはありませんでした。結局のところ、わたしは精神分析に対する部外者として終わりました。

ただ、今になって言えるのは、もし精神分析が精神的な病に対して有効に働くのだとしたなら、それは「愛という欺瞞を利用する」よりも、大前提として、分け隔てのない、すべての個人が最初から持っているような普遍性、生命や個性を尊重すること、恋愛的な意味ではなく、かけがえのない内面を持った、心を持った一人の人間として愛すること、尊厳を認めること、が必要なのでは、と思っています。そしてそれは、あらゆる対話的な治療にとってもそうだと思います。そんなことは勿論だれもできません。経験を積んだ医師でさえ、様々な欠点を持った人間です。

でも、真摯にそういうものを目指さなくてはいけないのだろうと思います。

当時のわたしは、そういう事の重みをよく理解していませんでした。

ともあれ、精神分析との関わりを通じて出会うことのできた様々な人たちに対して、深く感謝しています。

 
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  「哲学者たちは世界の解釈をしてきたが、肝心なことは世界を変革することだ」(マルクス

本日はお忙しい中、この場所に集まっていただいて、どうも有難うございます。
伊藤嵯輝といいます。音楽をやっています。

今日はこの場を借りて、「最初にあった、ということの本当らしさよりも、後から来た、ということの欺瞞性を愛する、という倫理、あるいは、人工的であることの倫理性について」というテーマについて、発表させていただこうと思います。

非常に長いテーマですね。果たしてこれはいったいどういうお話になるでしょうか、、まず言い切ってしまいましょう、これは過去にあったこと、起こったことを再構成すること、特に、言葉だとかイメージとか音の組み合わせで、再構成すること、つまり映画や警察の言葉でいえば、モンタージュすること、ある一つの原理にしたがって、過去の材料を吟味し、一つの全体像を創り上げていく、ということ、それはどういう事か、そうして、その過程におきることは、どういう事なのか、ということがテーマです、そう、言い切った、というよりかは、言い換えてしまった感じですが(笑)先に進みましょう。

果たしてこれはいったいどういうお話になるでしょうか。それはわたしにとっても正確には謎です、なぜでしょうか、それは、わたしが、あらかじめ用意して置いた断片的な思いつきのメモと、連想と、「もとからあった」自分の経験とを組み合わせて、まさにこのお話の全体像を作り上げていこうとしているからです。

つまり、必要な材料を選び出し、場合に合わせて加工し、言い換えたり言い方を変えたり、リズムを整えたりしている、ということです。これと同じプロセスは、様々な場面で日常的に起こっていますね。例えば、今披露させていただいた、歌の歌詞がそうです。小説もそう、論文も、それどころか普通の会話も、一人言でさえそうです、つまりそういう編集作業は、意識しているしていないに関わらず、わたしたちのひとりひとりの中で、すでに行われている、ということです。フロイトは、夢の中でさえ、そのような編集作業が行われている、と口にした人でした。しかし夢の話をすると脱線してしまうので先を急ぎましょう。わたしはできればこのお話を時間通りに、しかも成功裏に終わらせたいと考えています。そのために、昨日までに考えてきたことや自分の体験を再構成させて、お話しています。さて、それではこのお話を成功裏に終わらせるためには何が必要でしょうか、考えてみましょう。
ひとつには、わたしがつつがなくスムーズに話をすすめるための場所が必要です。クレマスターのような場所は、そういうわけで幸運だった、というわけです。

もうひとつは、このお話に耳を傾ける聴き手が必要です。もっと正確に言えば、聴き手のある程度の真面目さ、さらに付け加えれば、聴き手に対する欲望、と言えばいいでしょうか。つまり、わたしは聴き手を満足させるために、話さなければなりません、聴き手を飽きさせないように、様々な工夫をする必要があります。もちろん、わたし自身も、このお話の重要な聴き手です、なのでわたし自身を満足させる必要もありますね。

さて、場所と聴き手があるからこそ、わたしはそれに合わせた話し方を考えることができますね。話し方は内容を整えます、しかしながら、もはや話し方自体もはや内容の一部分ではないでしょうか?形式のない内容は存在しません、内容のない形式もまた然りです。ところで、その話しあるいはその物事の出来事、もしくは意味内容を発生させ、あるいは決定させるものはなんでしょうか、言い換えれば、どういう時に、その話の意味は決定されるのでしょうか。

ここで、話をすすめるために、皆様方に知っていただきたい、フロイトの主張している一つの概念があります。
それは「事後性」という概念です。

「事後性」 deferred(英) Nachträglichkeit(独) après-coup(仏) 【フロイト】 『精神分析事典』p.164
 心的生活の特殊な時間性および因果性の次元について言われるもので、記憶から除かれた印象あるいは痕跡が、完全な意味、完全な効果を発揮するのは、最初の刻印のときより後でしかないという事実をいう。

これはフロイトの「心理学草案」に出てくる症例、エマという少女の症例の中ではじめて出てくる概念です。彼女は、8歳の時にお使いに行った食料品店の店長に性器を触られるという虐待を受けます。しかしながら彼女がそれを「誘惑」と解釈し、それがトラウマになって店に一人で入れないという症状を示すようになったのは、思春期を迎えた12歳の時、彼女がある洋服屋に入った時に男の店員たちの笑い声が聴こえ、その笑い声が店長の「誘惑」時の笑いを連想させたときからでした。つまり、思春期を迎え、性の意味を知った後はじめて、彼女は過去の「記憶」を再解釈=再構成し、「誘惑の被害者としての私」という自己像を創り上げたのでした。

ここにあるのは、被害を受けた出来事と、実際の症状のきっかけになった出来事との間にある時間差です。12歳のときの出来事が、8歳のときの事件の外傷的な意味を、いわば未来から過去にまで遡る形で、決定される。しかもそれが、彼女にとっては、身体に結びついた一つの「症状」として、発生する。ということです。フロイトは、「一つの記憶が抑圧され、それがただ事後的に外傷となった」という言い方をしています。ある出来事の意味付けが、はっきりとした意味、効果として、反応として現れるのは、その出来事よりも事後的に起こる、ということです。

というわけで唐突に精神分析のトラウマチックな話が出てきてしまいましたが、この「事後性」という概念があらわれるのは、トラウマチック関係だけにおいて、ではない、ということが重要です。「果たしてこれはどういうお話になるでしょうか」つまり、この疑問、このお話の意味内容についての疑問について、わたしたちは、この話をわたしが言い果たし終わってから、はじめてわたしたち自身にお答えすることができる、というわけです。言い換えると、一つの「出来事」あるいは「物語」は、その「最後」の部分が終わるのを待ってから、はじめてその意味を、つまりその意味内容を、作り出します。もちろん、最後にいたるまでの部分は、他の部分とのかかわりあいの中で、大まかで不確定ではありながらも、ある程度は先取りされています、予言されている、とか、占われている、あるいは演奏されている、とでも、言い換えてもいいでしょう、しかしながらこの予言や占いがペテンだったのか、演奏が失敗になるのかは、終わってみなければ確定はできない、ということです。

もう少し詳しく突き詰めてみましょう、「彼女は彼を愛している。」という文を考えてみましょう、「彼女は」という部分だけでは、あるいはそれに、「彼を」と加えただけでは、まだ文の意味としては不十分です。「あなたはあのひとがなんだというの?一体あなたはあの人のなんなの?」というわけです。「彼女は彼を」というふたつの部分からなる構築物は、それらの意味を最終的に確定してくれる次の言葉を待ち続けているのです。そして「愛している」という最後の部分が発話される時、特に一つの句読点を伴って発話される時、それによってはじめて、それまで不確定だった文全体の意味が「事後的に」「後になってから振り返られる形で」確定される、というわけです。そうして、わたしたちはその成否を判断することもできますね。「いいえ、私は彼を愛してなんかいません」とか「そうです、誰かがそう言ってくれるのを本当はずっと待っていました、わたしは彼を愛しています」とか反応することもできるわけです、とはいえ、二択ではなくて曖昧な返事をすることもできますね。というか、往々にしてそうなることが多いというのは周知の通りです。裏をかえせば、相手がはっきりした事を言えるから曖昧なことも言える、ということでもあるのでしょうから、ともあれ、相手の反応によって、わたしは「彼女は彼を愛している」という仮説ないしは想定は「間違いだったんだ/本当だったんだ」と、事後的に、未来から過去を振り返る形で確定させることができるわけです。もちろん、相手が曖昧でどうとでも取れることを言った場合は、私の予測は、幽霊のように、最終的な意味内容の決定を待ちながら、永遠に記憶の狭間をさまよっていることになるわけですが、その辺のことはいたしかたありませんね。

さて、それにも関わらず、というか、それだからこそ、でしょうか、わたしは予言します。あるいは自己暗示します。「このお話は成功裏に終わるでしょう」もちろん、わたしは最終的なことは何もわかりません。というか、この次に何がやってくるのか、分からないわけです。けれども、こういう風に言い換えることもできます。「人はひとつの因果関係の中に絡め取られているときに、最終的な答えがいつでも自分の欲望にそったものであることを予言的に先取りして行動ないしは告白しないではいられない」ということです。わたし自身は、このお話を成功裏に終わらせたいと考えています、というか、まさにそのことを望んでいる、というわけです。そのために、わたしは、自分の欲望によって想定された未来の状態に沿って、話し方を変えます。話し方は、意味内容に制限を与えます。たとえば礼儀正しい話し方をすればそれだけ、短絡的だったり暴力的だったりするような結果を避けることができるでしょう、冗談の多い話し方をすれば、それだけ結果の中に冗談的な部分、いわば軽い部分、日常に即しているような部分を付け加えることもできるでしょう(もちろん逆効果な時もありますが。その辺はまさに賭けですね)。あるいは、話す内容を変えることもありますね、そうしたら話したい内容に合わせて話し方も変わるでしょうね。

裏をかえせば、人がその中にいるような因果関係、人によって物語られる論理的な出来事のつながりには、欲望が関わっている、ということ、そして、そういう物語が、わたしたちの現実を作り上げている、ということです。しかもそれは、身体と結びついた現実でもある、ということです。いや、ヒステリー症状の例を出すまでもないでしょう。例えば、わたしとお付き合いしている人がいるとして、別の男と仲良く話しているのを目撃するとして、浮気と解釈するかただの友達と解釈するかで、わたしの腸は嫉妬なり憎しみなりで煮えくり返ったり、別にどうということもなかったりする、ということです。この例をそのまま使って、次に続くお話を考えてみましょうか。いまいち事実関係がはっきりしないがために釈然としない(つまり然りと解釈できない)おかげで、煮えくり返るべきか、なんでもなかった事にするべきか、はっきりしない状態でいるわたしは、「事後的にその出来事を決定する為に」彼女に向けて手紙を書くかもしれません。あるいはさしあたってはそのことをネタにして歌や小説をつくるかもしれません(余談ですが、大正昭和の私小説がやっているのはそういうことですね)。もしくは相手に直接に会って問いただすなり話すなりするかもしれませんね。わたしは自分の欲望にとって想定された、自己暗示された、予言された、ないしは予測された未来のヴィジョンに沿って、言い方を変えるでしょう。言い方の時点で、未来をどうにか先取りしようとするわけです。もちろん結果は事後的ですけど。

つまり、ここではっきりするのは、物語ることには物語る欲望を起動させ、それを遂行させるための、欲望の対象が必要である、ということです。今この場所でわたしの言葉にドライブをかけているのは、皆様方を喜ばせたい、という欲望でもあるかもしれません、「この話を成功裏に終わらせた偉いわたし」という自己像に対する欲望でもあるかもしれません、あるいは他の誰かに対する欲望なのかもしれません、少なくとも、「話し続けているこのわたし」とは違う「このわたし以外の誰か」のまなざしに対して、まなざしの機嫌を取るために、話している、というわけです。

(もっとも、事後的に見ると、日常のつまらなさを破壊するために、みんなでものすごく変で面白い空間を作りたい、という願望が強いような気がしますが。しかし、言い換えれば、ものすごく変で面白い空間というヴィジョン、もしくはそのヴィジョンを見ている誰かのまなざしに向けてしゃべっている、とも言う事ができます)

こういう意味でのまなざしの事、言語と結びついた欲望を起動させる対象の事を、フランスの精神分析家J・ラカン対象aと呼びました。ラカンの孫弟子に当たるジジェクは、あなたの恋人が持っているように思われる、なんだかよく分からないけど特別な何か、というような仕方で、この言葉を説明していたと思います。歌や小説や詩が恋愛のテーマばかりになるのは、こういう観点から言えば当然といえば当然ですね。少年漫画には恋愛の要素は少なかったりしますが、実は宝探しとか、父親探しとか、天下統一とか、世界を守るためとか、欲望の対象が関わっていない物語をさがすのはとても難しいことだと思います。

さて、ここで精神分析の強みが出てきます。というのは精神分析というのは一種の対話療法だからです。

精神分析の長椅子の部屋にやってくるクライアントには、分析家に対する信用が絶対に必要です。「あの人ならわたしの事を直してくれる」「あの人は本当に親身になってわたしの話を聴いてくれる」「あの人はわたしの話に対してまったく驚くような返事をしてくれる」「あの人は、わたしがまさに聴きたいと感じていた言葉にぴったりの言葉をきかせてくれる」「あの人はわたしの知らない事を知っている」「この人になら、気を許して離しても大丈夫だ」「この人にこそ、話さなければならない」というような、分析家に対する想定が、クライアントに必要になってくるのではないか、ということです。つまり、分析家は「まなざし=対象a=欲望の対象」の立場になる、ということです。

クライアントは、だからこそ、分析家の機嫌を取るために、自分の過去の事をいろいろ話すという事になっていくわけです。そして、分析家の欲望に沿うように、過去を連想し、都合のいい所を選択し、自分の物語を整理整頓し、位置づけ、位置づけることで再構成し、最終的に、再構成した事によって発生させた、物事の組み合わせによって生まれた、意味の効果を、受け取る、ということになります。しかもこれが、身体的な効果です。つまり、先ほどお話した、エマのトラウマのお話と、原理的には全く同じ事を行うと言ってもよいのでしょう。分析において、神経症の治療が成り立つ場合、過去を事後的に再構成していくことで、ヒステリー症状を言語に翻訳し、そのことによって、身体から取り除く、ということなのです。

だからこそ、ラカンは「分析は愛という欺瞞を利用する」といいます。分析家に必要なのは、相槌を打ったり、無視したり、声色を変えたり、必要なときに質問したり、意外な解釈を出すことによって、物語られている因果関係に句読点をうち、より掘り下げた話ができるように軌道修正していく、ということです(もっとも、ここでは様々な問題も生まれます。例えば、クライアントが、分析家を喜ばせるために、大げさなつくり話を嘘のように仕立てあげてしまう事、ないしは、分析家がそれを真に受けて信じてしまう、ということ、あるいは、分析家がクライアントを支配してしまったり、本当に恋愛関係になって手をつけてしまったり、というような、そういう問題です。精神分析という対話療法に、必然的にある種のいかがわしさ、というか、うさんくささがただよってしまうのはそのせいもあるのだと、個人的には考えています。分析には信頼関係が絶対に必要なのはそのためです)。

そう、愛という欺瞞が必要、ということです。実際のところ、クライアントの側にしてみれば、せっかく心療内科のドアを叩いたのに、実際に話してみれば、ないしは分析が進んでいくに連れて、期待はずれだったりすることだってあるでしょう。ここにわたし自身言われたことがあった、あるいは言ったことがあるセリフをご紹介しましょう。つまり「あなたはわたしの事を全く分かってなんかいない」「あなたはわたしの話なんて全然聞いてなんかいない」という台詞です。

場合にもよりますが、経験的に見て、これを恋人から別れ際に言われた時は、「あなたはわたしを愛してなんかいない」「だってこんなの話が違う!」と、その人が言っていると、翻訳した方が適切であることがとても多いような気がします。もの凄い主観的な話なので、同意していただければ非常に心強いですが(笑)さて、喜んで話を聴いてくれる、ということ、この人になら喜んで話せる、ということ、あるいはこの人の話を聴き続けていたい、と感じるということ。愛という美しい幻想、おそらくは言葉によって生きている人間にとっては、もはや「幻想」と言う必要がないまでに、絶対に必要な感じを与えてくれる幻想は、この場所においてこそ現れるのではないでしょうか。愛という欺瞞、そう、実際愛というのは、確認し続けることによっては、確かめられるような代物ではないので、客観的には、愛というものは存在しないと言い切ってしまうことさえできるのではないだろうか、とも思うわけです。

ところで一番始めにわたしたちの話しを聴いていてくれた、と思わせてくれるのはだれでしょうか?人は話しているときに必ず話している自分の話を聴いています。そうすることで自分に暗示をかけています、けれどもそういうわたしたち自身を別にすれば、大抵の場合には、わたしたちの親ですね。親との関係も、後になってから、事後的に解釈されます。今となっては、子供のころに実際にどうだったのかははっきりしない部分が非常に多いので、それが真実なのかどうかなんて事は、本当は言えないはずなのですが、新しい解釈を思いつくその時の状況、あるいはそれまでの記憶(もちろんその時に合わせて再構成されています)にとっての、本当らしさ、が、その場に現れ、私たちはその本当らしさを、本当なんだと信じてしまうのです。しかも、往々にして、わたしたちは身体的なレベルで、そうするのです。

親との関係が、その後の他人との恋愛関係もしくは性的関係を、かなりの程度において規定してしまう、ということは、別に精神分析を学ばなくても、いろいろ経験すれば分かってしまうでしょう。恋愛関係において、わたしたちは、しばしば、自分や相手が、親子関係のやり直しをしているのではないかと感じてしまう場面に出くわします。「あなたはわたしを自分の父親/母親の代わりに観ているだけ」という言葉。そして実際に、「わたしはあなたに、理想的な父親/母親を投影しているだけ」という感覚。恋愛関係において、あらわれるこのような状態を、精神分析も「転移」と呼んで利用します。いわば分析家は、仮装され、仮想された、理想的な親を演じる、というわけです。そこに、親子関係や、恋愛関係、ないしは師弟関係や兄弟姉妹関係でもいいでしょう、そういう何か根本的な人間関係が、再上演されるのです。

ふう、だいぶ長々と話してしまいました。もう少しです。

分析家は、転移の関係において、つまり再上演の関係において、クライアントにおそらくは別の未来の可能性を贈ります。

つまり、
①あなたのお父さんやお母さんや別れた恋人は本当はこうだったかもしれないじゃない?という可能性の提示。
②忘れていた記憶を思い出す事による相対化や再解釈。
③すべての男/女/両親/恋人がこうであるわけではない、わたしの体験が人間一般の原理原則にそのまま忠実なわけではないかもしれない(初期状態、「最初にあった事」の「本当らしさ」は、それ自体後になってから組み立てられたものであること)。

ということです。しかしながら、そのままの状態だと、分析家はカルトの教祖とか、ハーレムの首謀者とか、そういうものになっても仕方ないと言えましょう。実際、そのような危険は常にあるのだろうと思います。だからこそ、クライアントは文字通りに顧客となり、分析家に対価としての金銭を与える、という事になるわけです。そうすることによって、分析家は、言語と通貨の交換によって成り立っている市場経済の中に、事後的に、位置づけられて、「そういう職業のあの人」という風に意味づけられる、というわけです。

そういう意味で、分析家は詐欺師であり、一種の呪術師であり、非常に欺瞞的な職業であると言えましょう。

とはいえ、皮肉なことに、これは分析家の不必要さを指摘する原因でもありますね。つまり友人関係でも、恋愛関係でも、師弟関係でも、代用が効くような側面があるのです。ただ、精神分析のこのような側面を理解している人は、必ずしも多いとは言えないような気がします。精神分析は科学である前に、おそらく一つの技術(ART)です。そしてその有効性があるとすれば、それは、わたしたちのこの社会を支配している、「最初に体験したこと」ないしは「人間の本質」に対する思い込みを解除すること、変革すること、抵抗することにおいてこそ役立つような技術なのではないでしょうか。

例えば「人間なんて性欲がすべて」「所詮私たちの恋愛は家族関係の繰り返しでしかない」「わたしの人生は実は子供の頃の関係によってすでに決まっている」「すべての生き物が本質的にそうであるように、人類も必ず滅ぶ」「人間なんて、自然環境を破壊するだけの無駄な存在、であり、動物の方がずっと偉い」というような考えは、わたしたちの社会の至る所で機械のように、事あるごとに、機会があればすぐにでも、こういう事を話しているわたし自身でさえ、頭の中で口にしてしまうような考えです。そして、問題なのは、そう言った考えが、わたしたちに虚無感を与え、絶望させ、あまつさえ世界のすみやかで確実で痛みのない滅亡を、欲望させずにはいられない、ということなのです。

今までのお話からたどっていけば、これらの認識も、やはり後づけで再構成されたような物語、表面的にはとても自我にとっては耳障りのいい物語であることは論をまたないでしょう。実際わたし自身も、嫌なことがあれば自分なんて死ねばいいのにと、考えないわけではないのです。それは、短期的な欲望の満足のために、つくりだされた物語であり、うわさ話であり、わたしたちのこの社会のなかでいつまでもいつまでも暗唱させられ続けている様々な神話なのです。

あるいはこう言い換えてもいいのかもしれません、「一番はじめにあった」、という枠組み自体が一つの欺瞞であり、わたしたちの、いわば論理的で数学的な欲望に裏打ちされた、夢を表現するために編み出された語り口の一つなのかもしれないと。

だとしたら、もはやわたしたちは「欺瞞」という、いささかシニカルで、あざとい言葉の響きでもって、まるで天上桟敷にいる物見高い見物人のような態度でもって、物事を語る姿勢すら、それこそ欺瞞的だった、とさえ、言えるのかもしれませんね。

そういうわけで、わたしたちはひょっとしたら、気づかないうちに、自分自身に対する詐欺師なのかもしれません、呪術師なのかもしれません、あるいは手品師なのかもしれませんね。間をとって、マジシャンという事にしましょうか。たとえば愛というのは何もない空から薔薇の花束を取り出すようなことなのかもしれません。

とはいえ、わたしたちはわたしたち自身が感動しさえすればそれで問題ない、というかわたしたちは十分に満足するし、対価を支払う気にもなる、というわけです。正体不明で氏素性の分からないものであるということと、それが人を動かさないかどうか、ということはこの際無関係です。わたしたちはすでに血統書付きではありませんし、あるいは偽造された血統書かもしれません、そしてすべての血統書は人工的なのかもしれません。

それでも、いいえ、それだからこそ、高貴であるということはできるはずです。わたしたちは自分自身が信じ込まされ、気づかないうちに暗唱させられている様々な神話を、様々な未来ないしは過去との新しい、それが意味を産み出すような語らいにおいて、書き換えて、ないしは造り上げていくことができることができるはずです。

過去を解体し、再構成することは、それまでの過去像を解体することだけではありません、そこにあるのはこれからの未来像を破壊すること、変革することでもあります。

もっと言い換えるなら、それは過去と未来の死、ということです。語り続ける状態における、物語を遂行することによる、演奏し続けることによる、死ですね。欲望の対象とのかかわりの中で、言葉とむすびついて、意味を生産すること、その事による恍惚を、ラカンは「享楽」と呼びました。

肉体を殺すことがなくても、享楽の次元において、精神的に死んで生まれ変わることができさえすれば、人は生きて行くことができると、個人的には考えています。

最初にあった、ということの本当らしさよりも、後から来た、ということの欺瞞性を愛する、という倫理は、この社会においては、まず間違いなく必要な倫理です。多くの場合において、言葉で表される真理とは所詮、事後的なもの、つまりは人工的なものです。わたしたちは言葉と結びついた欲望において生かされている人間なのですから、必然的にわたしたちの生きていく倫理は、人工性の、言い換えると技術的な、つまりは非常に芸術的な刻印を、後になってから、決定付けられているのではないでしょうか。この事をいい添えてから、長きに渡ったこの発表を、終わりにしたいと思います。

どうもありがとうございました。

(2011年)

 

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予定を変更します。 - Keysa`s room

 

2002年から2018年までに書いた詩や小説などをnoteにまとめました。 - Keysa`s room