note転載3 こぎれいな小品たち

1、レシート

わたしは昔、テーブルの上に、放って置かれて、丸められているレシートの塊みたいに、ぽつんと一人で生きていられたら、どんなにいいかと思っていたっけ。でも、その思い出のイメージも、今はもう、短い言葉に纏められ、くしゃくしゃにされ、球体にさせられ、廊下の隅っこにある、プラスチックの水色の容器に、美しい放物線を空に描きながら、跳躍していき、飛び降りていって、水色の中から、水の中から、未来のわたしを、見ていたのだっけ。

2、蛇口

ぴかぴかしている蛇口の取っ手をぎりりと捻ると、たわわたわわと水が出てった。それでそのまま手を洗った。音もかすかに生まれでていく石鹸の、血の通わない泡たちの他愛のない儚さの上で、何時間でも横になったら、さぞさぞ心地の良いことだろうな、とわたしは思った。さぞさぞ心地のよいことだろう。――「ぼくもこういう淡々しているつぶらできれいな塊のむれになって、誰かの両手をきれいにしたいな」と、わたしというよりわたしの中の幼児が言うのが、どこかできこえた。「幼児め」とわたしは思った。――それにしても「さぞさぞ」って響きは変でいいな、とわたしは思った。「そうね、素敵ね、このナルシストさん」と、わたしというよりわたしの中の女性が言うのが、どこかからきこえた。「女性め」とわたしは思った。

3、グレープゼリー

銀のスプーンで掻き混ぜられた後で、ごつごつした地面の上に打ち捨てられて、その形態を不甲斐なく崩しているグレープゼリーは、細長く歪んだ溝のように横たわり、きよらかな光をくるくると滑らせている艷やかな表面を、乾いた秋風に揺さぶらせながらきゃらきゃらと笑っていた。それは誰がしかの靴底に踏みにじられたせいで、黄疸色の臓物を、周囲に惜しげもなしに曝け出している糸蚯蚓の全身をわたしに向かって思い出させた。

4、洗濯物

窓枠から、不断は滅多にお目にかかれないような洗濯物が、だらんと垂れ下がって伸びていた。それは若い女のしなやかな両手で、うっすらとした群青色の静脈と、すべすべときらめく淡い薔薇色の爪先が、雨上がりの、いささか潔癖な風味をもった、夜明けの陽射しに嬉しそうに映えているのだった。

5、水色砂糖の結晶柱たち

ジンジャーパウダーと薄味のムースを戴冠した、水色砂糖の細長い結晶柱たちを手に取ると、添加物である、黒百合抽出物の匂いが、ワイシャツの袖に付着した。――「かりっ」と砕ける響きが立って、それはわたしたちの口の中で崩折れていった。――するとその中で、幾多もの微小な植民都市を作って楽しく暮らしていた微生物たちは、絶妙なバランスで調合された、新しい香料に変身していき、わたしたちの間でしなやかに立ち上がって、広がりそのまま消えていくのだった。まるで薄荷のように、体中の毛穴がすうっとほの白く立ち騒いでいった。

6、秋の光

秋の光は、ほどよい匂いのたちこめている枯葉たちの湖にさわやかに溺れて、気持ちよさそうに笑うのが好きで、いくぶんしんなりとしてやわらかい心地の、ほんのりとした赤味のかかっている翡翠色の糸で編みこまれている空の高級シーツに、華奢であどけない全身を、なめらかにすべりこませて、ぐっすり眠るのが大好きだった。

7、エンドウ豆

とてもひょろながい爪を伸ばして、時の小皿に盛られた、黄昏色の莢豌豆の皮をゆっくりと剥いだ。そこにくっくり敷き詰められて、それぞれびっしり蹲り、とろんとしている、夜のボールたちの間から任意の一つを選んで、優雅な手つきで摘んでとった。そのてのひらから転がして落下させると、水平線は漆黒の色に包まれていた。宇宙空間は水浸しになった赤いルビー色のチョークみたいに燃えていた。

8、メダカ

初夏の陽射しを燦々と浴びると、そのままわたしは體を喪くして、小さな臓腑や骨の、端から端まで徹して見える、橙色の、目高の群れに、変身をした。――そうかと思えば、空の波浪をしゃららと縁取り、白ヶしている飛沫に変わって、逆巻き泡立ち、きらきらと、時の流れにかき混ぜられては、檸檬色した嬌声を上げて――無邪気な嬉しさそのものみたいに、瑞々しそうに喜んでいた。

9、嫌いな食べ物

川の向こう岸に小石を投げて、心もとない飛び石遊びを、尽きることなく繰り返しながら――彼は嫌いな食べ物のことを想像した。彼は柳葉魚(シシャモ)という魚の焼き魚の事が苦手だった。ししゃししゃと、ささくれだつような音を立てながら、シシャモの肉を、箸で摘んで口に入れると、あの独特の、ささくれだつようにむわっとする生臭さが匂いたつだろう。そうして嫌味なくらいに粒粒している魚卵の群れが、口腔の隅から片隅にまでも離散して、ぐちゃびちゃぐちゃびちゃとこびりつくだろう。所かまいなくそこらかしこに。所かまいなくそこらかしこに。このさも忌々しげなる卵どもときたら、目端が効いて、小狡くて、広がるだけが、身の上の、要は嫌味な奴なのだった。

――「だからあのうねうねしている焼き魚は嫌いなんだ」と彼は思った。川の向こう岸に小石を投げて、心もとない飛び石遊びを、尽きることなく繰り返しながら。

(2007年に書き始めて2012年に完成)

 

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